仏教にはさまざまな教えや行道があって、その共通する真理は何かが、よくわかりません。いったい、共通する真理は何なのでしょうか?ものごとをごまかさないで、そのごとく見る。これを仏教の言葉で「如実知見(にょじつちけん)」といいますが、ものの本質をありのまま見極めるところに、仏教の共通点があるように思われます。そこで自分の目を見開いて、外界をその通りにごまかさないで見つめることにします。そうすると、外界の一切は一瞬として留まることなく、すべてが流されるように動いているという真理を知ることができます。この世の常なるものはなく、一切が動き変化する。そこでこの真理を仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といい、教えの一つの根本真理とします。
今度は、外界を眺めていた目を内に向けます。自分の心をごまかさないで見つめてみると、外界には常なるものが何一つないという真理を知ることによって、自分もまた例外ではないことが明らかになります。自分自身、心も肉体も絶えず動いており、ここにこのような「己」がいるという、確固不動の永遠に変化しない「我」は存在しなくなります。この真理が「諸法無我(しょほうむが)」と呼ばれ、いま一つの真理となります。私たちの日常は、ここに私がいる、これは私のものだという「我」を持って生活を営んでいるのですが、それは錯覚であって、本来そのような「我」は存在しないのです。
にもかかわらず、私たちは私という我に取りつかれて、どうすれば私は健康でいられるか、幸福な生活を続けることができるかどうかと、毎日あれこれとはからう心に惑わされています。ではこの「はからう心」は何から起こるのでしょうか。これを仏教では、それに執着すること、欲望から起こると教えます。世に常なるものはなく、それは己のものだという我もまた存在しない。それなのに私たちは、若さに執着し、いつまでも若くありたいと願い、心身に執着して、健康でいたいと欲し続ける。そのはからう心が、私を惑わせ苦しめているのだとすれば、要はその執着する心を除けばよいということになります。
そこで仏教では「諸行無常」「諸法無我」の真理を、ごまかすことなく見つめさせ、迷いの根源である執着心を滅せよ、と説くのです。こうして、執着心を滅することによって、私たちの迷いの苦しみ・悩みはなくなり、私は寂静でやすらかな心に至ります。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と呼ばれる、第三の真理で、いかなるものにも迷わず、どのような誘惑にも破られない「覚りの心」なのです。
確かに、仏教にはさまざまな教えが見られます。ある教えでは厳しい行道が求められ、また他の教えでは仏さまの大悲を信じる「信」が尊ばれます。けれども、つまるところ各々の教えはこの三つの真理を見つめさせようとしているのであり、そのような意味で三つの真理が仏教全体に共通する理念だといえます。とすれば、この三つの真理があればそれは仏教だということになり、この真理が仏教であるか否かを見分ける目印になります。そこでこの三つの旗を立てて「三法印(さんぽういん)」と呼び、これこそが仏教だとするのです。
ところが現実はどうでしょうか。私たちはこの教えを聞き学ぶことによって、心がやすらかになり、寂静の境地に至り得ているでしょうか。決してそうではありません。目を外にして外界を眺めると、宇宙の一切は一瞬として留まることなく動いています。諸行は無常であるという真理は、まさしくその通りであって、わが身の全体も常に動いており、私自身には永遠に砕かれない確固不動の「我」など存在しません。この真理にも、私たちは素直に頷くことができます。仏教の根本原理は、すべてが因と縁によって生じると説く「縁起の法」だといわれますが、この諸行は無常であり、諸法は無我だという教えの真理こそ、縁起の法そのものだといえるのですが、この教えをいかに聞き学んだとしても、私の心にはそれほど大きな変化は起こらず、やはり苦しみと迷いの中にあって、とても「涅槃寂静」の境地に至ることはできません。それはなぜでしょうか。
そこで、ここにいま一つの真理が導かれることになります。それは、諸行は無常であり諸法は無我だという教えを聞いて、まことにその通りだと学んだとしても、けれども自分だけは例外でありたい、という心は消えないという真理です。自分だけは幸福のまま常でいたい、私だけは死にたくない、という願いは絶対に消すことができません。それは愚かな人間のはからいの心であり、欲望から起こっているといかに教えられても、この欲望は消えないのです。それはまさしく仏法の真理の流れに逆らっています。その逆らいが自分自身を根本的に苦しめることになるのです。この根本苦が「一切皆苦(いっさいかいく)」と呼ばれるいま一つの真理で、先の「三法印」が覚りの真理だとしますと。この「一切皆苦」は迷いの真理でこの真理を加えますと仏教の旗印は「四法印」になります。
親鸞聖人は愚かな凡夫の心について、人間の欲望は、つまるところ「愛欲」と「名利(みょうり)」になってしまうと述べておられます。愛欲とは、欲しいものが欲しい、欲しくないものは欲しくないという欲望です。名利とは、他人に対して自分をよく見せたい、他人からよく思われたいという欲望だといえます。そのような欲望を実現させることは不可能で、その欲望こそ迷いの心であり、はからいの心だ、覚りはこの欲望を断ち切ることで、そこに「涅槃寂静」の世界があると教えられても、そのやすらぎの心を得ようとしないで、私たちはどこまでも愛欲と名利にしがみついてしまいます。凡夫の心はそれ以外にないと親鸞聖人は教えられます。
「はからいの心は欲から起こる」という仏教の教えは大切です。迷いの原因である」はからい」を破るための真理だからです。けれどもその真理に、迷いそのものの真理も含まれているといれば、欲望を断ち切るのではなくて、欲望の中で欲望を超える仏道が、いま一つなければならなくなります。