『仏教聖典』に
「人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。」
と説かれています。この富と財は一応重ねることが出来ますから、そうしますと人が執着する最大のものは「財と名と命」の三つになるといえます。言い換えますと、すべての人は、この三つの事柄が、自分によく適えられるように願って生きているのだと言い得ます。
「財」とは、生活条件の基本で、よく生きるためには財がなければなりません。自分にとっての理想の人生を描けばよいのですが、便利で豊かで快適な生活ができ、環境にも恵まれて、平穏無事な人生が送れれば、これに過ぎるものはないといえます。そして今日の科学文明の社会では、このような生活が一部の人々だけのものではなくて、社会に生きる全ての人々に可能となりつつあります。そういった意味で、経済が現代社会では常に大きな問題になり、経済のひずみが争いの原因や国と国との紛争へと展開していきます。だからこそ「財」はそれだけ人間にとって大切だと言うことができます。
多くの人にとって、一人で生きていくということは極めて困難なことであり、それ故に誰もが仲間を作って生きるという、社会的な生き方を求めます。そこで、人が仲間と共に生きるために最も大切なことが倫理・道徳となるのです。社会生活を営む上では、人の和を乱したり、他に迷惑をかけるような自分勝手な行いは許されません。そのために「規則」が作られ、その規則を守ることが善になり、反対に破ることが悪ということになります。このような意味で、人は生きる上で善をなすことが求められるのです。
ところで、社会的に生きるためには、いま一つ重要なことがあります。それは一人一人が「名」を持つということです。社会全体の中で一人一人が個別に存在しているのですが、その一人の自分が、他と区別して自分の存在を示すためには、一人一人が必ず自分の名を持たなくてはなりません。そこで名を持ったもの同士が、互いに仲良く生活していくことになります。そうすると、いつしか自分という存在が他人によく思われ、しかも他人から素晴らしい人だと認められたいという思いが湧いてきます。この場合、一番の近道は、他人よりも多くの善をなすことです。したがって、善いことをして名をあげることが人間にとって重要な事柄になります。したがって「名」は自分にとって、最も大切なものだということになります。
また毎日の生活の中で、ことに願われるのが「やすらぎ」です。どれほど財を蓄えたとしても、人々から自分の名がどれだけ誉められたとしても、自分の心にやすらぎがなければその人の人生は悲惨です。そのような意味で、いままさに生きているという「命」は、やすらぎの中になければなりません。
そこで人は、やすらぎを得るために懸命になります。この場合、そのやすらぎは努力をすれば得ることができます。例えば、静かな道場で座禅をしたり、荘厳された本堂で念仏を称えたりといった具合です。そのような仏道は、当然やすらぎの心を生みます。この他、日常生活の中でも音楽を聞いたり読書をしたり茶をたて花をいけて心をやすらげることは可能です。このやすらぎのある生活は、私たちの「命」をとても充実させてくれます。
このようにみますと、私たちの人生にとって財と名はやはり非常に重要なのであって、財と名に支えられてやすらぎの命があるのです。いうまでもなく、私たちにとって最も大切なものは自らの「命」なのですが、その命が財と名に支えられています。良い人生を送るということは、つまるところ財を蓄え名をあげることになるといえます。ところが仏教では、このような人生の見方そのものを、はからいであり、迷いだとしてその執着を絶つことを教えています。
生きるという面を中心に考えますと、人々にとって財と名と命が特に重要であることに異論はないと思われます。けれどもそれにこだわりますと、その人の人生が悲劇になることもまた事実だといわなくてはなりません。今日の経済中心主義が地球そのものを破綻に陥れようとしていますし、名へのこだわりが人との生活の中で多く摩擦を起こす原因となっています。そして幸福を求める命への執着が、その臨終において悲惨な姿をもたらすことになります。
しかしながら、どうしても財と名と命に執着をせざるを得ない私たち凡愚にとっては、その執着を断てといわれても、自らの力では断ちようがありません。このような、痛ましいほど愚かな人間の姿を仏教では「煩悩具足(すべての迷いを具えている)の凡夫」と呼んでいます。
仏教は本来、その煩悩をいかにして断ち切るかを教えます。執着することの醜さを、さまざまな比喩・事例を通して明らかにします。けれども多くの仏道者たちは、その執着を断ち切るために、懸命に行道に励みながら、我が身の事実を直視すると、執着を断ち切れない自身の姿が顕かに知られるばかりで、さらなる苦悩に陥っていくことになります。
そのような者のために浄土の教えが開かれています。ここでは『阿弥陀仏の本願を信じ、自らの愚悪性を恥じらい懺悔し、浄土への往生を願って念仏しなさい。そうすると、たとえ煩悩を断じなくても、阿弥陀仏の浄土に生まれ、悟りを開くことができる。』と教えられています。
この教えの中から、多くの浄土教者が生まれています。その人々は、自らの愚かさを恥じらい、懺悔する人生を歩んでいますので、煩悩を断ち切れていないとはいえ、財と名への執着は薄れ、しかも阿弥陀仏の本願を信じてるいるので、永遠の命もたまわっています。実に、我が命を超える、すばらしい人生が実現しているのです。そこで善導大師は、この念仏者を「妙好人(みょうこうにん)」と讃えられ、阿弥陀仏の本願を信じる念仏者こそ、真の仏弟子だとされます。
ところが、親鸞聖人はこの念仏を信じる真仏弟子の道を前にしながら
『誠に知んぬ。悲しい哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑して、定聚の数に入るこを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし傷むべし。』
と自分の心を吐露されます。どこまでいっても、私たちは財と名と命の執着を断ち切ることができない迷いの深い存在であることが思い知られます。けれども、だからこそ、そのような私が身の事実をごまかさないで見つめよと、親鸞聖人は教えておられるのです。