阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の名号を通して、一切の衆生を摂取(救おう)しようとしておられます。それはなぜでしょうか。諸仏にとっては、迷える衆生を救う慈悲の実践が唯一の仏道です。そのためには、一切の衆生を救いたいという仏の願いが、仏の功徳とともに、その衆生の心に届かなくてはなりません。ところで、願いや心は、本来的には相(すがた)はありえません。
しかし私たちが住むこの人間世界は、いまは無仏であって、私たちが直ちに接することの出来る仏陀は、どこにもいらっしゃらないのです。だとすれば、無限の仏が、この苦悩し迷える私を仏果に導こうと願われているとしても、この私が仏の大悲心に触れないかぎり、私自身仏に救われることは不可能だといわなくてはなりません。もちろん愚かなる私は「すがた」のましまさない仏陀の願いや、大悲心を見ることはできません。
宗祖のお手紙に「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と呼ばれている一文があります。その中で宗祖は「自然」という言葉を「おのずからしからしめる」と釈されて、法の道理として、如来が迷える衆生をおのずから無上の仏果に至らしめようとはからわれているのであって、凡夫の計らいによって凡愚が仏になるのではない。如来の法の徳のはたらきによって、凡夫はおのずから仏果に至らしめられるのである。それを「自然法爾」というのだと示しておられます。
そして凡夫が「無上仏」に成ることについて、無上仏とは、かたちのましまさない真如そのものの意味ですが、そのためには真如がまず動いて、凡夫の前にすがたを現し、真如の功徳の全体を凡夫に与えなくてはならない。その真如の法の功徳の全体を出現せしめた「すがた」が「南無阿弥陀仏」だと説いておられます。
無上仏である真如が、一切の凡夫を無上仏に至らしめるために阿弥陀仏に成られ、凡夫の心に響く言葉が名号として凡夫に来る。それは凡夫を南無阿弥陀仏と一体になさしめて、凡夫を真如に至らしめようとする如来のはからいであって、それが自然法爾と呼ばれる法の道理だと明らかにされるのです。このような道理を踏まえて宗祖は、南無阿弥陀仏の六字を次のように解釈されます。
『阿弥陀仏は一切の衆生を救おうという本願を成就され、無限の智慧と慈悲の功徳の一切を衆生に廻向しようと発願されました。その発願こそ阿弥陀仏自身が名号という言葉となって衆生の心に来り、衆生を歓喜せしめ信ぜしめて、浄土に往生せしめる業力なのです。そうすると発願のすがたが「南無」ということになります。この意味からして南無阿弥陀仏とは、本来的には阿弥陀仏が衆生に向かって南無する心です。』
と宗祖は私たちに教えて下さいます。こうして、私たちが称えている一声一声の称名念仏、その「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏ご自身がこの私を摂取(救う)ために、私に向かって躍動している、仏の本願力そのものになります。私が称える一声の念仏は、私を仏果に至らしめようとする、阿弥陀仏の躍動のすがたなのです。そうだとすれば、現に迷える私の悟りへの道は、この名号に導かれるのみということになります。
ときに宗祖は
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
という言葉を残しておられます。私たちの人間の姿を「煩悩具足の凡夫」と捉え、この人間の住む世界は、我が家が不慮の災難に出会うように、まさに無常そのものであって、この世の一切の出来事は、そらごとたわごとで、真なるものは何一つ存在しないと示しておられのです。この言葉をいま一度かみしめて、味わってみたいと思います。今日の私たちは、自らの正しさの上に人間社会を築いていると自負しています。人間の英知を表に出して、個人も社会も国家も、自らの正しさを主張することを何よりも先としています。それは、人生における確かさや正しさのみが尊ばれているあり方だといえます。
けれども、それは当然のことであって、人間社会に不正や悪事が横行することは、絶対にあってはなりません。したがて、故意に行う不正や悪事は、常に厳しく罰せられるべきです。ところで、いまここで着目したいのは正しさを主張しているその心であり、正義のもとに行われるその行為性についてなのです。人々の英知を集めてなされているその行為が、果たしてそれほど正しく確かで善きことであるのかを問うてみたいのです。
宗祖の教えにしたがえば、人間の行為性、それはたとえ理性のもとで英知を集め、いかに正義と善意でもってなされたとしても、その行為はそらごとたわごとでしかなく、雑毒の善・虚仮の行としか呼び得ないとされます。人間の歴史を振り返ればこのことは容易に知ることができます。まさしく人々は、不確かなことしかしていないのですから。その人間性の本質を、宗祖はごまかすことなく私たちに教えておられるのです。それはつまるところ、人間とは究極的に煩悩具足の凡夫でしかないということです。そうすると、私たちはこの一点を常に慙愧の眼で見つめることが必要になります。自らの正しさを不動のものと確信している自分に恥じらいの心を持つことが求められるのです。
凡夫であれば確固不動の清浄真実の心は作り得ないというべきです。たとえ一時的に無の心を作り得ても、命を脅かす不慮の出来事が起これば、その静寂さは一瞬に消え去り心は動転します。私たちは究極的に死への不安は消えません。もちろん、たとえ迷信にすがりついても、何の効果も現れません。だからこそ、この私を無条件で救う仏がましますのです。真如の動くすがた、南無阿弥陀仏がそれですが、だからこそまさに「念仏」なのです。