「頭をさげる」「頭がさがる」 同じようで大違い

 私達は、自分にとって何らかの利益をもたらしてくれるものには頭を下げますが、それ以外のものに対しては頭を下げることなどあまりしないものです。

しかも、心の中でそれが損か得かを素早く計算して「得」の答が出た時だけ頭を下げることが多いようです。

 また、自分は愚か者であるとか、罪深い者ですと言って、暗い顔をしてうなだれる人があります。

それは、実は頭を下げたくない心で頭を下げさせられているだけのことで、負けたくない心でしぶしぶ現実に負けていることを認めている劣等感の表れに過ぎません。

そのような心の葛藤がよけいにその人を暗くしてしまうようです。

 ところで、私達は自分自身の姿を一点の妥協もなく見つめると、そこに明らかになるのは自己中心的で欲深く愚かとしかいいようのない我が身の事実です。

それと同時に知られるのは、にもかかわらずそのような私が今ここに生きているという事実です。

 思うに、この私を生かしめて下さっている全ての力や恩徳に目覚めると、これまで自分の力だけで生きているつもりでいた自分が、周囲の人々のお蔭によって生かされて来たことが知られ、そのご恩に自然と掌を合わせ、頭が下がってしまうのではないでしょうか?

 同じ頭を下げるのでも、嫌々ながら下げるのと、自然と下がるのでは相手に対する印象もかなり違うように思われます。