「教育と宗教」みんなが評論家

======ご講師紹介======

田中教照 さん(武蔵野女子学院学院長)

☆ 演題 「教育と宗教」

昭和二十二年山口県生まれ。東京大学文学部卒業後、昭和五十一年に浄土真宗本願寺派の宗門校・武蔵野女子大学講師に就任、現在は武蔵野女子学院中学高等学校校長もお務めです。

ご専門は仏教学で、特に初期仏教と真宗を中心に研究しておられます。

また、山口県美祢市・西宝寺に所属する僧侶でもあられます。

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武蔵野女子学院学院長 田中教照 さん

目に見えない仏様を後ろにいただいて、先生も生徒もお互いにお礼を言う。

それが我々の学校の教育です。

先生が偉いから生徒を教えるのではございません。

生徒は未熟だから先生の言うことを聞かなければならないわけでもございません。

先生も生徒も偉くはないんでございます。

お互いに仏様の智慧の鏡に自らの身を照らしながら、生徒は生徒のなすべきことをし、教師は教師のなすべきことを一生懸命にさせていただく。

その中で日々、自分を振り返ります。

そして

「仏様、私はこれでよろしいのでしょうか。まだまだ至らない点があると思うんですが、お気づきの点があったらぜひ教えていただきたいのです」

という気持ちで、教師も生徒も謙虚さを失わずに学びの道を進めていく。

こういうことが教育の基本になければいけないと思っているんですね。

それを踏まえて考えますと、現代社会には一つの問題が見えてまいります。

それはみんなが評論家になってしまっていることです。

おそらくテレビの悪い影響でしょう。

人の悪い所をあげつらって、ああでもないこうでもないと言っています。

でも人の欠点をどんなにあげつらっても、事態はよくならないと私は思います。

親鸞聖人がおっしゃっている通り、わかっているけどやめられないのが人間なんです。

人を非難することよりも、その人を私たちがどう支えていくか、どうカバーできるかということを考えた方がずっといいです。

「あいつができないから悪い結果になった」

と批判することは、結局人の欠点を探して悪口を言ったりさげすんだりすることで、自分は正しいと思い込んでいるだけなんです。

自分は正しいとどれだけ言ったって、周りの人が悪かったら結果は出ません。

結果を出していくには、お互いにどうやって協力していくかを考えるべきでしょう。

なのに人をおとしめることばかりに一生懸命になっているのは、お互いに足を引っ張るだけでちっとも生産的ではないと思います。

今学校で起こってることは、まさにこういうことではないでしょうか。

具体的に申しますと、親の方は「あの先生が悪い」と学校を批判しています。

逆に学校の先生はどうかというと、「あの子は家庭教育がなっとらん」すなわち家庭が悪いと言ってるんです。

それじゃ子どもがよくなっていく道に全然つながらないじゃないですか。

せっかく子どもが学校に入っていながら、親の方があの先生はダメだとか、この学校はダメだとか言っていたら、子どもはその学校で自分を高めていこうという気にならないでしょう。