天候が良すぎたのか、はたまた地球温暖化の影響なのでしょうか。
昨秋は、全国的に野菜が大豊作だったそうです。
ところが、それが生産者にとっては災いしてしまい、鹿児島県においても大隅半島の東串良地区特産の「ピーマン」が、出荷時期を前に値段が大暴落してしまい、出荷すればするほど農家の方々にとっては損失が大きくなるため、止むを得ず処分をしているということがテレビ・新聞等で大きく取り上げられました。
適正な価格を維持するために、出荷に必要な分だけが収穫され、それ以外の残りのピーマンが無惨にもトラクターで踏みつけられていく映像を、胸の痛む思いで見たことでした。
また、同時に、生産者の方々が「廃棄処分」という苦渋の決断をされるに至った心境はいかばかりであっただろうか…と、思わずにはおれませんでした。
一般に、私たち消費する側の視点で見れば「あぁ、なんてもったいないことを…」と、短絡的に考えてしまいがちです。
買う場合、安いにこしたことはありませんし、ましてや「捨ててしまうのであれば、分けてもらえないだろうか…」という思いが誰の心をもよぎるはずです。
けれども、ここでひとつ考えさせられた事柄があります。
それは、いつも私たちは自分の都合でしか物事を見ていないということです。
今は、たくさんの物があふれている時代ですから「お金さえ払えば何でも購入できる」といった感覚が身についてしまっています。
そのような私にとって、この報道は「自身の性根が試されている」かのような思いがしました。
「物流社会」の波にかき消されて、いつしか「お野菜」も「お魚」も「お肉」も、そのすべてがいのちある存在であったことを忘れ、日々その尊いいのちを頂いているにもかかわらず、関心事といえば美味しいかどうか、値段は高いか安いかといったことに一喜一憂し、つまるところいのちを「物」としてしか見ようとしていない在り方に陥っていることに気付かされたことでした。
処分される野菜を見ながら発した「もったいない」の言葉も、いのちを愛おしむ心からではなく、単に「処分するくらいならただでもらうのに…」といった、何とも浅ましい心から発した言葉に過ぎなかったのでした。
改めて、食前の「頂きます」の言葉の意味を大切に受け止めたいと思います。