親鸞聖人の往生観 (5)4月(後期)

だから親鸞聖人の教えは、この私に一つの善もないことを、見つめさせる表現になっているのです。

愚かな凡夫には、真実の善はほんの少しもない。

私たちには絶対的な善は一つとして存在しない。

にもかかわらず、私たちはその善の側に自分を置いて、他を見ているのです。

その自分自身を善としてとらえている心を、根底から破ろうとしているのが、親鸞聖人の教えになるのです。

阿弥陀仏の大悲からすれば

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

となるのですが、それを私たちは通常

「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」

としか考えることができないのです。

なぜなら常識的には、私たちは誰でも人間としての理性を持ち、善悪を判断し、倫理的に生きることを喜びとしているからです。

したがって当然、自分には仏道を歩む力があると思っています。

それは、私たちにはどこまでいっても、自力の心が残っているということです。

けれども本来的には、私たち凡夫には仏になるべき力は全く存在していません。

究極的には悪人でしかないのです。

その悪に目覚めた姿が、まさに親鸞聖人が比叡山で最終的に一切に行き詰まり、善の可能性が全て破れて、法然上人の前に跪いている姿になるのです。

ここのところを私たちは見落としてはなりません。

一つの善のかけらさえないという自覚が必要になるのです。

そのような自覚において、はじめて自分は浄土に生まれる善行ができない、浄土を願う心さえ生じないという、自らの力で阿弥陀仏をとらえることの全く出来ない自分が明らかになるのです。

ここで浄土真宗の教えの特徴としての「悪人正機」の意義が知られます。

「悪人なをもて往生をとぐ」

の悪人こそとは、

「私は悪人だから救われている」

という教えなのではななくて、自分を善人としてしかとらえていない私たちに、その愚悪性を見つめさせているのです。

したがって、浄土真宗は、どこまでも悪人往生でなければならないといえます。