「仏像に聴く」(上旬)法を説かれる仏陀の存在が待たれた

======ご講師紹介======

江里康慧さん(仏師)

☆ 演題 「仏像に聴く」

仏像という作品は、「美術品」であると同時に、『礼拝対象』でもあります。

「木に仏の声を聞く」という江里さんは、美術と宗教をどのように意識しておられるのでしょうか。

じつに興味深いところです。

昭和十八年、京都市生まれの江里さんは、昭和三十七年京都市日吉ケ丘高校美術課程彫刻科をご卒業され、松久朋琳師、宗琳師に入門。

昭和四十年に独立、父・江里宗平氏のもとで仏像彫刻の道に入られました。

東京や京都、アメリカなど各地で「江里康慧・佐代子展」を開催しておられます。

また、今年の三月十五日には、第四十一回仏教伝道文化賞を受賞されました。

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お釈迦さまの生きておられたころ、一地域の宗教に過ぎなかった仏教は、やがて全インドに広がって民族の宗教になり、今や世界宗教の一つに数えられるほどに発展してきました。

それにはアショーカ王とカニシカ王という二人の人物が重要な役割を果たしています。

アショーカ王は紀元前三世紀にインドを統一し、仏教を守護した王さまです。

カニシカ王というのは二世紀ごろ中央アジアあたりを中心に勢力を伸ばしたクシャーン族という騎馬民族の王だと伝えられています。

現在のパキスタンとアフガニスタンにまたがる地域、ガンダーラ地方と呼ばれるそのあたりは、今も昔も政情が不安定で、大昔から戦いが絶えない地域でした。

クシャーン族はこのガンダーラに侵入してきました。

その結果、そこに住む人々は家族が殺されたり傷つけたられたり、家財を略奪されたりするなど、戦争の被害を受けていたんです。

紀元前三世紀、アショーカ王は統一した全インドに仏舎利(ぶっしゃり−お釈迦さまのお骨)を分骨して、お釈迦さまの説話を浮き彫りで描いた仏塔を建てさせました。

そうして仏教を全インドに広めたといわれています。

ガンダーラ地方にはアショーカ王時代の仏塔が今も残されていますから、仏教はアショーカ王の時代にはすでにガンダーラ地方の人々に伝えられていたことがわかります。

仏教はそのころから戦争の犠牲になって苦しんでいた人たちの心に、救いとして染みいっていたんですね。

そのことは、残された作品を通して感じ取ることができます。

仏像は、ガンダーラで生まれたといわれています。

ガンダーラで作られた仏像はおびただしい数がありますが、それらが作られた背景というのは決して華やかなものではありませんでした。

やはり仏教による救いがあったからこそ、その信仰をもとにして作られたのは確かなことだと考えられます。

次に、カニシカ王もアショーカ王の勢威には及びませんでしたが、北インドを統一したと伝えられています。

ある文献によると、その統一の過程で九億人もの人がいのちを落としたと記されています。

この記録がどこまで誇張されたものかはわかりませんが、相当な数の犠牲者があったのは確かなことと思われます。

カニシカ王は、その悲惨な戦争の結果に心を痛めます。

そして、後半生はアショーカ王と同じように深く仏教に帰依し、外側から法を護る「外護」をしました。

カニシカ王が行った外護とは、それまでの「浮き彫り」ではなく「仏像」を奨励したことです。

そうしてカニシカ王の時代に無数の仏像が作られましたが、それ以外にも仏像が生まれる土壌というものがありました。

戦に巻き込まれていた当時のガンダーラ地方の人々にとっては、生きることはそのまま苦しみでもありました。

仏教とご縁を頂いても、仏塔の周囲に描かれた説話図の解説を受けても現実の生活面での救いにはなりませんでした。

この人たちにとって、それは既に亡くなったお釈迦さまの生涯を描いた過去の物語でしかなかったからです。

人々が望んでいたのは、今現在においてこの世で法を説いてくれる仏陀の存在だったのです。

その思いが、浮き彫りの説話図の主人公であるお釈迦さまの姿を、やがては立体の像として変化させていくことになったのだといえます。