「いのちのであい」(下旬)私も必ず死ぬ身

ただ、仏教の立場から言えば、厄払いをしようがしまいが、老いもしますし、病気にもなります。

私も認めたくはなかったのですが、ギックリ腰などは老いなのです。

これは避けがたいことなんですね。

友引の話にしても、友引にお葬式をしようがしまいが、人は必ず死ぬのです。

この必ず老いること、必ず死ぬことをお釈迦さまは「無常」と言いあらわされたのです。

現代というのは、科学が非常に発達している世界です。

しかしながら、科学が全てではないのです。

私は、医師として僧侶として活動している訳ですが、例えば大学病院などで同じ病室ばかり続けて亡くなる方が出ることがあります。

そうすると、看護士さんやお医者さんが、私に

「この病室を御祓いしてくれないか」

などと言うのです。

「おいおい…」と思いますね。

科学的な考え方を修めたはずの医師や看護士に、そういった迷信を信じている方がいるのです。

現代というのは、科学的な考えた方がもちろん主流なのですが、迷信というものも非常に強く残っているのです。

しかしながら、科学と迷信ばかりで、この「無常」という真実が薄くなってきている、そんな気がします。

私には小学生の娘がいます。

その娘が一年生の時、休みの日に一緒に絵を描いていたのです。

その絵が非常に上手くて描けて、娘は喜んでいたのです。

そしてその夜に、ニコニコしながらこう言ったのです。

「お父さんが死んだら、この絵をお墓の中に一緒に入れしてあげる」と。

私は、人は必ず老いて死ぬということ、無常ということを言いました。

人は必ず死ぬといいますが、その「人」とは私なのです。

仏教とは決して傍観者的な教えではありません。

自分がそうだということなのです。

しかしながら、娘にそう言われた時に、私はギョッとしました。

私の父と母が自分たちのお葬式の話をしていても、別に変に思いません。

それは、父と母が必ず私より先に死ぬという思い込みがあるからです。

しかし、自分が必ず死ぬことは考えからはずれているのです。

だから、それを娘から言われてびっくりしたのです。

仏教が説いているのは、傍観者的に人が死ぬんだよ、無常なんだよということではありません。

私が死ぬんだということ、この一人称の死の解決が、仏教の根本なのです。

これを『仏説無量寿経』というお経では

「独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る」

という言い方をされますし、蓮如上人は「後生の一大事」とおっしゃいました。

これらは一人称の死であり、私のいのちの根本問題です。

ただ、先程もお話しましたように、自分自身の死を受け止めることは非常に難しいものです。

けれども、だからこそ、これを受け止めるには、いろいろな現実をあるがままに見なければならないのだと思います。