「『篤姫』放映と観光振興」(上旬)姑の本寿院は嫁に寛容で優しかったんじゃないか

======ご講師紹介======

原口泉さん(鹿児島大学教授)

☆演題 「『篤姫』放映と観光振興」

原口さんは、平成二十年に放送が予定されているNHK大河ドラマ『篤姫』の時代考証を担当されています。

昭和二十二年、鹿児島市生まれの原口さんは、東京大学に進まれ、博士課程を修了。

昭和五十四年から鹿児島大学の法文学部に勤務。

助手、講師、助教授を経て平成十年から教授に。

原口さんのご専門は日本の近世、近代史で、特に南九州と薩摩藩の歴史研究に取り組んでおられます。
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天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)。

この人の人生は鹿児島時代、大奥時代、東京時代の三つに分けることが出来るでしょう。

将軍の正室

「御台所(みだいどころ)」

としての大奥時代、篤姫は養父の島津斉彬に託された使命を果たそうと必死に努力します。

その使命とは、将軍家の跡継ぎに一橋慶喜を勧めるように、十三代将軍のお母さんである本寿院(ほんじゅいん)にとりなしてもらうことでした。

本寿院は嫁のその話を聞いて、将軍家定に

「篤姫のお父さんの島津斉彬が、一橋慶喜を跡取りにと推薦しております」

と伝えました。

すると将軍家定は

「なんたることか。

私はまだ三十五だ。

一橋慶喜は二十を過ぎているではないか。

しかも外様大名の分際で、公に世継ぎのことをうんぬんするとは何事か」

と激怒しました。

家定は御台所に、そういうことはダメだと、実家に対して手紙を書かせるように本寿院に言いました。

ところが、本寿院はそんな家定をなだめるんです。

「そんなことをしたら御台さまがかわいそうでしょ。

立場がなくなりますよ。

労中と相談してご沙汰して下さい。

それを私が伝えてあげますから」

と言ったんです。

これは本寿院が、篤姫のことを我が子の将軍家定にとりなしをしているんです。

そして、家定は大変怒っているということを篤姫に伝えます。

ところが篤姫も父斉彬に託された使命ですから、簡単にはあきらめません。

嫁でありながら、姑である本寿院に反論しているんです。

斉彬宛のお手紙の中で篤姫は

「お母さま、私は見をいとい申さず」

と書いています。

まず、自分はどうなってもいいということです。

これが篤姫の生き方なんです。

「こういうことを父斉彬が言うからには、よほど徳川家のことを案じているからだと思います。

どうかお願いします」

と嫁が反論したのに対して、姑は

「お願いだから控えておいて下さい」

と言っています。

しかし、それでも篤姫はあきらめませんでした。

大奥の中では、上臈(じょうろう)というのが責任者なんでが、その上臈の歌橋(うたはし)に同じ相談をしているんです。

そのときの答えも

「御台さま、控えておいてください」

と、本寿院と同じでした。

実は、大奥は御三家の中で水戸が嫌いでしたから、将軍に世継ぎがない場合は次期将軍候補となるご三卿の一橋家当主とはいえ、その水戸家出身の一橋慶喜を次期将軍として認めることは出来ない訳です。

このことから、私は姑の本寿院は嫁に寛容で優しかったんじゃないかと思うんです。

本寿院の気持ちになってみますと、息子の家定はやや知的障害があるものの十三代将軍職を立派に務めています。

ただ、家定は公家から迎えた御台所を二人も亡くしていました。

そこで、三人目ともなると、しっかりと支えてくれる女性をということで、島津家から御台所を迎えられたんです。

そのとき斉彬は、篤姫なら性格も温和だし、家臣の勧めもある。

しかも忍耐強く、人に接するのが巧みである。

これは将軍の御台所に推挙するのは彼女しかいないということで、篤姫が選ばれたんです。

そのような意味で、おそらく本寿院にとっても篤姫は期待の星だったんじゃないかと思います。

だからこそ、嫁の言葉を家定にとりついだんでしょうね。

安政五(一八五八)年七月六日、将軍家定が亡くなり、さらにその十日後には島津斉彬が鹿児島で亡くなりました。

斉彬の影響が亡くなり、次期将軍は一橋家の慶喜ではなく、紀州徳川家の家茂に決まりました。

そして篤姫は落飾して天璋院となり、すべての支えを亡くしてしまったんです。

まさに四面楚歌というような立場におかれる中、実家の島津家からは幕府に対して引き取りの打診がありました。