例えば、有名な「苦行の像」ですが、お釈迦さまは六年に及ぶ断食やヨガなどのさまざまな苦行をなさり、とうとう骨と皮だけになってしまわれました。
それは、非常に痛々しいお姿です。
しかし、この像の前に立ちますと、崇高なものを感じると多くの方が言われます。
そこには、造形の世界の不思議な力を感じます。
この像にしても、先程の「梵天勧請」の像にしても、頭の後ろには丸い円盤が表されています。
これは、仏陀の身体から光が発せられていることを意味しておりまして、後の「光背(こうはい)」の原初の形です。
また、当時の仏教教団では、捨てられた布を拾い集めてきて、粗末な布を身につけたと伝えられています。
そのことから想像しますと、普通の人の目に映るお釈迦さまは、決して美しい身なりはされていなかったはずなのです。
ところが、実際私たちが仏像を拝観しますと、多くは金色で表されています。
お釈迦さまは、決してあのような金色の美しい布を召しておられたわけではありません。
それにもかかわらず、なぜ金色で表されているのでしょうか。
それは、表面ではなく内面を表しているのです。
普通の人が見たら、そうではないのかもしれませんが、仏弟子が見たお釈迦さまは、悟りを得られて真理そのものと成られた光り輝く方であり、偉大な方であったということです。
このようなイメージは、その後の仏像に反映されていきます。
具体的には、光り輝くお釈迦さまを、金箔でもって金色に表しています。
また、親鸞聖人のご和讃をご覧いただきますと、「浄土和讃」の最初に「尊者阿難座よりたち世尊の威光を瞻仰し生希有心とおどろかし未曽見とぞあやしみし」とか「如来の光瑞希有にして阿難はなはだこころよく如是之義ととへりしに出世の本意あらはせり」とあります。
これは仏陀のお弟子である阿難尊者が、ある日お釈迦さまの尊顔を拝してご威光を感じるということがありました。
先程申しましたように、お釈迦さまは粗末な着物を着ておられましたが、阿難尊者が見るお釈迦さまは光り輝いておられたということです。
なお、この時に説かれたのが、親鸞聖人が「真実の教」とお示し下さった『仏説無量寿経』です。
このように、仏像は実際に言葉を発してものは言いませんが、私たちに何かを語りかけているのです。
私はそれを聴いていくことが大切であると感じ、日々木に向かい、ノミを振るって仕事に向かっています。