「親鸞聖人における信の構造」3月(前期)

 聖道の行者は、この世において心を清浄にして、悟りに至ろうとします。

それはあたかも釈尊が双樹林下で涅槃に入られたその境地を理想としています。

ところで『観無量寿経』に説かれる往生は、聖道の行者と同じ心を臨終の時に求めていると親鸞聖人は見られます。

けれども、愚かなる凡夫にそのような心を作れるはずなどありません。

けれども、もし経典が真実心を求めているとすれば、実際は真実心を持ち得ていないにもかかわらず、真実心があるかのように振る舞わなくてはなりませんが、それは誤魔化し以外の何ものでもありません。

 そこで親鸞聖人は、まず『観無量寿経』の教えにしたがって往生を求める念仏道を、双樹林下往生と呼ばれました。

そして、この者は懈慢界(けまんがい)に往生するとして、この教えには真実の往生は見られないと、この往生の道を否定されました。

 「真実清浄なる心をもって、念仏を称え往生を願う」

常識的には、ここに浄土教者の道があります。

ところが、その道を求めながら、もしこの念仏者に「真実清浄なる心」が生じなければどうなるでしょうか。

当然、苦悩に苛まれるか、ここでいま一度、本願の声を聞くことになるのだと思われます。

本願には「念仏せよ、あなたを救う」と誓われています。

だとすると、この本願にただすがりつけばよいことになります。

 『阿弥陀経』では、釈尊が

「阿弥陀仏の教えを聞き、本願を信じ浄土に生まれたいと願って、ただ一心に名号を称え続けよ、必ず往生する」

と説いておられます。

『観無量寿経』と『阿弥陀経』との大きな違いは、『阿弥陀経』では『観無量寿経』で求められている

「真実清浄の心になること」

が求められていない点にあるといえます。

既に見た通り、凡夫にはそのような心を作ることは不可能だからです。

 ただし、死を前にした場合、その恐怖のために誰でも必然的に、必死になって助けてほしいと願います。

ここに意味する一心の称名は、まさしくこのような心で称える念仏だといえます。

したがって、一心に阿弥陀仏の本願を信じ、往生を願って必死に称名念仏することは、どのような凡夫にでも可能となります。

こうして、親鸞聖人の心は、

『観無量寿経』

による往生の道が破れた時、必然的に

『阿弥陀経』

の教えに導かれることになったのです。