「親鸞聖人における信の構造」8月(前期)

 既に述べてきましたように、親鸞聖人の思想の最大の特徴は、ただ信心のみで、阿弥陀仏の浄土に生まれ仏になると説かれることです。

仏教は、迷っている自分が、仏道を行じて仏になるという教えですから、「行」を説かない仏教思想はありえず、「行」こそが、仏教思想の中心だといわなくてはなりません。

ところが、その仏教で最も大切な自分が修すべき往生のための行を親鸞聖人は説かれないのです。

それはなぜなのでしょうか。

このことは、親鸞聖人自身が、仏道の行を不必要だと考えたり、その行を軽視されたという意味ではありません。

むしろ全く逆であって、迷えるものが仏になるためには、仏道を真に行じる以外にはない、仏の教えにしたがって、自分を偽ることなく、真実の心で一心に励むという行こそが、仏道のすべてだという立場にたっておられました。

だからこそ、若き日の親鸞聖人は一切の妥協を許さず、ただひたすら行の真実性を求めて、懸命に励まれたのです。

親鸞聖人のこの若き日の求道は、非常に重要であって、もしこの一点を見落とすと、親鸞思想は成り立たないとさえいい得ます。

では、求道の結果はどうだったのでしょうか。

完全なる行、真実清浄なる行為が求められますと、凡夫の行為はどのように微細な行為でも、そこには不完全性が見いだされます。

そのため親鸞聖人の行道は究極において、その一切が根底から破綻したのです。

それが親鸞聖人二十九歳のときであって、行が完全に挫折し、苦悩のどん底に陥られました。

そこで親鸞聖人はどうすることも出来ず、比叡山を降りて六角堂に百日籠もられたのです。

ところがこの状態の中で、親鸞聖人は偶然、法然聖人に出遇われ、念仏の教えを聞かれたのです。

では、法然聖人は親鸞聖人に何を語られたのでしょうか。

この時、法然聖人は親鸞聖人に「阿弥陀仏の大悲心」と何かを語られたのです。

仏の大悲心とは、悩み苦しむ衆生の苦しみを抜き、楽しみを与えることにほかなりません。

そうだとしますと、仏に成りたいと願い、懸命にその道を歩もうと努力しながら、しかもその行が成し遂げられず、悩み苦しんでるものこそ、仏の大悲心に摂取されようとしているものだといわなくてはなりません。

では、阿弥陀仏はこの苦悩する衆生に、いったい何を

「救いの条件」

として示されているのでしょうか。

阿弥陀仏の大悲には、何ら救いの条件がつけられていません。

疑いを捨てて、純粋に仏の救いを信ぜよとも、ただひたすら仏の救いを願えとも、真実の心で一心に念仏を行ぜよとも、また心を清浄に保てとも願われていません。

 それは、なぜでしょうか。

この念仏の行者は、そのような信や行を求めながら、何ひとつとして結果が得られず、いま苦しみ悩んでいる者に他ならないからです。

だらこそ、阿弥陀仏は、衆生には何も求めないで、衆生を救うための大悲心を衆生の心に一方的に廻向されるのです。

では、その大悲心とは具体的は何でしょうか。

これが、仏から衆生へのよび声、

「南無阿弥陀仏」

にほかならないのです。