「南無阿弥陀仏」
が仏から衆生への呼び声であるとすれば、
「南無阿弥陀仏」
と称えている念仏者は、すでに
「念仏して救われよ」
と願われている、阿弥陀仏の大悲に摂取されている者だといわなくてはなりません。
けれども愚かなる凡夫は、救いを求めて、苦しみ、悩み、もがいているにもかかわらず、未だ阿弥陀仏のこの大悲の真理に気付くことができません。
六角堂に百日籠もられた親鸞聖人は、まさしくこのような苦悩の中にあったと考えられます。
この親鸞聖人に対して法然聖人が、阿弥陀仏の大悲の真理に気付かせて下さったのです。
『阿弥陀仏が親鸞を摂取するために「南無阿弥陀仏」となって親鸞の心に来たっている。
釈尊がこの世に出現されたのは、この念仏の真理を私たち衆生に知らしめるためである。
だからこそ、親鸞よ、ただ念仏して弥陀に救われよ。
』
と、法然聖人は説法されたのであり、親鸞聖人はこの教えを聞思することによって、はじめて阿弥陀仏の本願の真実を知らしめられたのです。
この真実を信知せしめられた瞬間が、親鸞聖人における
「獲信」
の時であり、ここに
「信心」
のみによる親鸞聖人の救いが成立したのです。
では、ここで何が明らかになったのでしょうか。
親鸞聖人の思想の特徴は、
「信を得る」
という事態において、信を得さしめる
「行」
の主体と、信を得る
「信」
の主体は同一人ではなくて、その主体が異なっているということです。
迷っている者が、未だ迷いの中にいる限り、その迷いの行をいかに積み重ねても真実の信は生まれません。
同様に、迷える信によって、真実の行が行ぜられることもありえません。
迷える主体は、いかに努力しても、その迷える行から真実の信は生みえませんし、迷える信では一片の真実の行も実践することができません。
親鸞聖人の大行の思想は、その点を解明されたのであって、私たち衆生は釈尊の
「浄土真実の行」
によって、阿弥陀仏の
「選択本願の行」
を信知せしめられるのです。
(註)「浄土真実の行」とは、釈尊が南無阿弥陀仏を称え、その念仏の真実を、釈尊の国土の衆生に説法する行為を意味します。
「選択本願の行」
とは、阿弥陀仏が
「南無阿弥陀仏」
を十方世界に響流し、その念仏についての諸仏の説法を通して、一切の衆生を直ちに摂取する行為を意味します。