世間を騒がせる、世間のうわさ、世間は広いようで狭い、と日常頻繁に用いられています。
このように
「世間」
の語は、世の中や身の回りの人々、その状況を表す語として現在広く使われていますが、もとは仏教語です。
生きものすべて(有情世間)と、その生きものすべてをすまわせる自然の環境(器世間)とを言います。
この世間は、つまるところ私たちの迷いの世界であるところから、そこを離れる志向を
「出世間の道」
と呼び、これは仏教の異称となりました。
仏教において
「世間」
は現在自分が身を置く場であり、出発点であるというのが本来の意味です。
しかしながら、現代の世間という語の意味するところには、用例から考える限り、自分の身の置き所というとらえ方はみられないようです。
有情世間・器世間を世間と略して用いる間に、世間は有情世間のみを指す言葉になり、さらに限定されて人間社会を意味する言葉となったようです。
身近な社会、耳目の及ぶ範囲、というほどの意味で、世間の語が広く用いられるようになるのは、江戸期の作家・井原西鶴が刊行した
「世間胸算用」
あたりからのようです。
金と時間に振り回される京都・大阪の庶民の大晦日を活写した名作ですが、題名にあるいは作中に使用される
「世間」
の意味は、現代と全く同じ意味で用いられています。
「世間」
は本来、身の置きどころにつけられた名称であり、自身の現実を意味していました。