「御文章(ごぶんしょう)」
というのは、本願寺八代宗主の蓮如上人が浄土真宗のみ教えを分かりやすい文章のお手紙にしたため、各地の門信徒を教化されたものです。
後に5帳80通の御文章としてまとめられて、現代においても法要や日々の仏事の際に拝読されています。
その中でも、葬儀や法事の際に拝読され親しまれているものが
「白骨の御文章」
とよばれる御文章です。
ちなみに、この
「白骨の御文章」
を作家の司馬遼太郎氏は、その著作の中で名文として取り上げています。
内容面では、大きく分けると二つのことが書かれています。
一つには
「朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」
という下りに代表されるような無常なるいのちの姿を、そしてその無常なるいのちの姿を受けて、後生の一大事に目覚めて阿弥陀如来をたよりとする身になって、お念仏申す人生を生きるようにお勧めになっています。
身近な人を亡くし悲しみの中にある人たちの心に染み入ります。
現代語に意訳されたものがありましたので、味わってみて下さい。
(意訳)
人間の生涯を深く想ってみると、あたかも水に浮かんでいる水泡のように、たちまちに生じて、たちまちに消えていくような定めなきものであります。
まことにはかないものとしか言い様がなく、一生がまぼろしのようなとりとめもない寿命であります。
いまだかつて一万年の寿命を受けたという人を聞いたことがありません。
一万年どころか百年の間生き得たものも稀であります。
人間の一生は、あっという間に過ぎ去り、夢・幻のようなものであります。
死を迎えるのは自分が先だろうか、他人が先に死ぬるのだろうか?その死は今日くるとも明日くるとも分かりません。
人によってはおくれて死ぬ人、先だって死ぬ人があり、さまざまです。
その数は木の根にしたたる雫、葉末にこぼれる露にもくらぶべきおびただしいことであります。
人はまことにはかない無常の人生であるといえ、いずれはかなく死んでゆくものです。
私たちは朝には若々しい顔をして元気であっても、夕暮れ白骨になってしまう身の存在といえます。
ひとたび無常の風が吹いてくると、両眼が力なく閉ざされ、ひとすじの呼吸も止まってしまうと、うるわしい紅顔もたちまちにあおざめて、桃や李の花のような美しさを失ってしまうさびしい死相になってしまいます。
ひとたび死んでしまえば、父母兄弟妻子などの親族が集まって、どんなに嘆き悲しんでも、もはやその甲斐はないものです。
そのままにしてもおかれないので、やがて郊外の野辺に送って火葬をして、夜半の荼毘にふせれば煙となってしまい、ただ残るのは白骨だけです。
とても言い様がなく、哀傷のきわみであります。
この人間のはかないことに気づき、この世は老少不定の境界であることを見とどけたならば、いずれの人も、早く後生の一大事を心にかけて、限りなきいのちとひかりの阿弥陀様を深く信じてひたすらにお念仏申すべきであります。
あなかしこあなかしこ
【蓮如上人と『御文章』】鎌田宗雲著(百華苑)より