「煩悩」

「煩悩」

という言葉は、サンスクリット語のクレーシャの漢訳語で、仏教と共に伝わってきた言葉で

「執着」

とか

「心を苦しめ損なうもの」

とかを意味する言葉です。

 仏教では、覚り(真理真実への目覚め)を妨げる根本的な心の惑い、すなわち自分の内から起こり漏れ出て、自分自身を迷わし悩ませる自己の欲心を煩悩といいます。

 よく言われる

「子煩悩」

という言葉も、親である心にとらわれて、子に迷わされ、子に惑うことを言う意味では、ほぼ仏教の原意に沿った使い方であると言えます。

 迷いと惑いの根本原因は、親自身、自分自身にあるのであって、子どもの方にあるのではありません。

それを子どものせいにしてしまったのでは、それこそ子どもの方は迷惑千万です。

 

「煩悩極まりなし」

と言われ、また除夜の鐘の百八つの鐘は、人間には百八の煩悩があるので、それらをことごとく滅ぼすために撞くともいわれます。

仏教で

「根本煩悩」

といわれるのは、

貪(とん)、

瞋(しん)、

痴(ち)、

見(けん)、

疑(ぎ)、

慢(まん)

の六種の煩悩です。

 一つめの貪は

「貪欲(とんよく)」。

「人やもの事に対して、むさぼり、執着する欲心」。

 二つめの瞋は

「瞋恚(しんに)」。

「人や物事に対して、腹を立て、憎み、忌み嫌い、うらむ欲心」。

貪が

「好き心」

と言えるならば、瞋は

「嫌や心」

と言えます。

 三つめの痴または癡は

「愚痴(ぐち)」。

「真理道理に暗い無知、愚かさ」。

この痴が煩悩の根本で、ここから貪も瞋も起ります。

「貪瞋痴」

の三つは、人間という存在に根ざす根本の煩悩と見られ、特に

「三毒」

と呼ばれています。

 四つめの見は

「五見」。

「無知から生じる誤った五つの見解、判断」。

例えば、

「自分」

とか

「自分のもの」

という見解、物事を苦とか楽とか有とか無とか、両極に分け決めつける見方、また、自分の見解だけが正しいとする判断などです。

 五つめの疑とは、

「真理道理を疑い、仏の教えを疑うこと」

で、真実の確信を得ず、自己に迷う在り方をいいます。

 六つめの慢は、

「自分を誇り、他に対して高ぶる妄想」

です。

この中には、自己を誇る

「我慢」

もあれば、一見卑下しながら誇る

「卑下慢」、

真理を知らないのに知ったと思い込む

「増上慢」

もあります。