仏弟子あるいは仏教徒とは、どのような人のことを言うのかと考えてみますと、それはおそらく
「仏の言葉にしたがって生活していくもの」
という言い方が出来るようです。
私たちは、日々それぞれに生活していく中で、誰もがいろいろな問題にぶつかり、どうして生きていけばよいのか戸惑い悩むことがあります。
そういう時に、常に仏の言葉に耳を傾け、仏の言葉によって自分の道を選んでいく、つまり自分の生きる依りどころとして、仏の言葉を持っている人を仏弟子、あるいは仏教徒というのです。
ただし、
「仏の言葉」
といいましても、今日
「仏の言葉」
といわれるものは
「八万四千の法門あり」
と言われますように、限りなく多くの経典が伝えられています。
そうしますと、仏の言葉にしたがって生きるということは、たくさんの経典の言葉を全部学んでいなければ仏教徒とは言えないのか、あるいはまた逆に、そういうたくさんの言葉さえ知っていれば仏教徒と言えるのか、というような両方の疑問がわきあがってきます。
もし、八万四千の法門の言葉の全てを身につけていなければ仏教徒とはいえないということであれば、おそらく仏教徒といえる人は誰もいなくなるかもしれません。
その反対に、非常に才能のある人がいて、そのほとんどの言葉を身につけることが出来たとしても、ただそれだけをもって仏教徒であるとはまた言い得ないと思われます。
お釈迦さまがこの世に出られ、真実の法に目覚め、その法を説きひろめられてから、約二千四百年余りの歳月が過ぎました。
その間、数え尽くすことのできないほど、多くの仏弟子方が生まれられました。
そして、それぞれの時代・社会に、仏法を明らかにし、伝えてゆかれました。
お釈迦さまは、仏陀として人々に教えを伝えていかれるようになられてからも、常に
「問うこころ」
を、問い続ける心を尊び、大事にされました。
言い換えれば、迷ったり、悩んだりする心を受け止め、そういう人々の迷いや悩みにどこまでも寄り添っていかれたのです。
そして、その人自身が真実に目覚め、真実に出遇っていくことを願われたのです。
いつの時代でも、人が人間として生ききり、死にきっていける智慧と情熱を求めようとする時、仏の言葉はその問いを受け止め、その問いに寄り添い、確かな方向性を明らかにしてきました。
それが、真実を語る言葉であるが故に、これまでも、そしてこれからも仏の言葉は人々に生きる勇気を与え続けることと思われます。