「ひらけゆく人生」(上旬)欧米では日曜の朝を礼拝で迎える

======ご講師紹介======

中西智海さん(本願寺派勧学)

☆演題 「ひらけゆく人生」

昭和9年、富山県氷見市に生まれる。

昭和36念に龍谷大学の大学院文学研究科博士を修了。

昭和63念に大阪の宗門関係の学校である相愛大学・相愛女子短期大学の助教授、教授を経て学長に就任、以後6年間勤められました。

平成7年に京都の中央仏教院長に就任。

僧侶育成に努めるかたわら1年間ブラジルの南米開教区開教え総長を兼任。

現在は相愛大学名誉教授、本願寺派勧学をお務めです。

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仏教とは、この私の2度とない人生といのちを正しく見ることです。

私は龍谷大学1回生のとき、深浦正文という仏教学の先生に教わったんですが、その教えというのが

「仏教というのは、曲がった木は曲がった木、まっすぐな木はまっすぐな木だと、ありのままに見ることだ」

ということでした。

仏教は、たったこれだけなんです。

しかし、人間というのは欲望によって物事の見方が全て自分中心になってしまうんです。

自分のいびつさ、未熟さ、間違いというものに、自分から気付くことがなかなかできません。

他人や世の中、あるいは時代のせいにはしても、自分が悪かったとはなかなか言いませんね、

仏さまの教えは、特別な人のための難しい教えではありません。

親鸞聖人は全ての人に開かれた教えだとおっしゃっておられます。

これは、自分の欲望、自分の基準、自分の色眼鏡に当てはめて受け取るものじゃありません。

反対です。

人間の欲望のために宗教があるのではなくて、欲望を見つめ直すために宗教があるんですよ。

さて、人間が生きるためには何がなくてはならないでしょうか。

と、このように問いますと、たいてい、そんなものは衣食住に決まっているじゃないかと答えられるでしょう。

確かに、それも間違いじゃありません。

生きるために衣食住は必要ですよ。

でも、ただ食べることが出来れば、それでいいんでしょうか。

もし、衣食住が足りるだけで幸せなら、物がたくさんある現代に生まれて有り難い、幸せだと誰もが思っているはずですよね。

でも、実際はそうじゃない。

今は1年間で3万人も自死する人がいる世の中です。

衣食住さえあればいいとは、とても言えません。

私は仏教と出遇わせていただいて、人間にとって生きるために必要なものは、本物、本当ということを追求することなんだと学ばせていただきました。

宗教を離して考えても、人は本当ということを追求してきたといえます。

昔の小学校の先生は子どもたちに

「学校は本当ということを教える所だ」

と教えていました。

いわば真理を追究して学ぶ所が学校だということです。

それで、学問をして知性を磨き、芸術を教えて感情を育み、倫理道徳を形成していのちを高めてきたんじゃないですか。

この学問・芸術・倫理道徳を学ぶことを、それぞれ真・美・善の追究と言います。

人類はこのように、ただ衣食住だけが目的だったのではなく、本当を求めてきたわけです。

しかし、その真・美・善の追究の他にもう一つ、学校では教えてもらえない

「聖」

という価値があります。

41歳のとき、初めてアメリカに行ったんですが、日曜日の朝はどこのお店も閉まっていました。

聞いてみたら、教会で礼拝しているとのことでした。

欧米の人にとって、日曜日は聖日。

1週間の始まりとなる日曜日の朝が礼拝で始まるわけです。

これはキリスト教でもイスラム教でも聖日として大切にされています。

この聖日とは何の日かというと、いのちを見つめ直す日なんです。