「ひらけゆく人生」(中旬)人間だけが偉いんですか

いのちと言えば、人間だけじゃない、動物もいのちです。

私は学校で、苦悩は人間だけで、動物には苦痛はあっても苦悩はないとか、道具と火を使うことが人間の特徴だと習いました。

ところが、テレビなどを見ておりますと、猫がノイローゼになったり、チンパンジーがナイフとフォークを上手に使って料理を食べるといった映像が流れたりします。

人間と動物の差というのは、どこにあるんでしょうね。

仏教では

「一切衆生」

と言いまして、人間だけが特別偉いという考えはありません。

西洋の思想では、動物や植物は、人間が食べるためにあるという考えがあります。

人間は理性があるから特別な存在で、他の動植物は理性がないから値打ちが下だということらしいですが、人間だけが偉いんでしょうかね。

仏教では、そういういのちに差をつける見方はありません。

インドに

「サットバ」

という言葉があります。

生きとし生けるものという意味なんですが、これは人間だけを示しているわけじゃありません。

動物も植物も、全部含まれています。

この言葉が中国で漢訳されて、仏教の

「衆生」または「有情」

という言葉として、いま私たちに伝わってきているんです。

この何がすごいかというと、人間から害虫まで全てのいちのをただ

「サットバ」

と一言で表してしまった。

つまり、全てのいのちに差がないということですよ。

仏教はこんなすごい理想があるのに、日本人はそれを使わず、西欧にならって理性があるからどうとか言う。

理性が悪いとは言いませんよ。

ですが、仏教では、その理性の危うさも教えてくれるんです。

親鸞聖人のお言葉に、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひをもすべし」

というのがあります。

時と場合によっては、縁があったら何をするかも分からない。

その

「かも分からない」

ところまで見抜かせていただくのが、本当に人間を見たことになるんじゃないですか。

また、いのちを考えるとき、それは身と心の両方から見ていかないといけません。

人によっては、宗教あるいは仏教は精神論だ、心だけの問題だというかもしれません。

ですが、親鸞聖人はそんなことは一言もおっしゃっておられません。

仏教には

「煩悩」

という言葉がありますが、それについて聖人は

「煩は身をわづらわす。

悩はこころをなやますといふ」

と説いておられます。

つまり、仏教が生きる上で問題とする煩悩は、心身の患いだということです。

また、

「信心歓喜」

という言葉がありますが、これについても

「歓は身をよろこばしむるなり、喜はこころをよろこばしむるなり」

とあります。

いのちが抱える煩悩も歓喜も、この私の身と心にかかってくるものだと親鸞聖人は書いておられるんですよ。

さらに、生だけではなく、死も見ていかないと、いのちの問題は解決できません。

今こうして私たちは生きていますが、生きているのが当たり前だと思ってはいませんか。

「ひょっとしたら事故や病気で死ぬかもしれない」

と思っている人はいるでしょう。

しかし、

「死ぬかもしれない」

ものなんでしょうか。

逆ですよ。

生まれたものは絶対死にます。

「ひょっとしたら」

死ぬんじゃない。

必ず死ぬんです。

生きているのが当たり前だと思うから、嬉しさもないし感激もないんですよ。

死は必然なり、生は驚きなり。

必ず死すべき者が、今朝目が覚めた。

それは

「有り難い」

ことなんです。

今あることの驚きを知り、人間の知恵、知識、思いはからいを超越したその不可思議に目覚める。

それが仏教です。