「ひらけゆく人生」(下旬)生まれて初めて父親を仏として拝んだ日

最後に申しますのは、見る世界と感ずる世界があるということです。

私は若い人に宗教を知ってもらうには、風を例えにして話をします。

風そのものは目で見えるものじゃありません。

木や草の揺れを見て、体で感じるものですよね。

宗教も同じです。

阿弥陀さまは目では見えません。

でも念仏の中に感じられる世界があるんです。

死んだらどこに行くか分からない私ですが、阿弥陀さまがそんな私を真実の悟りの世界に必ず抱き上げると言ってくれている。

すごいことですよ。

そういう宗教、仏教を、お念仏を私たちは頂いているんです。

おかげさまで、私たちは念仏の中に仏を感じ、先立ったご先祖を感じて生きていけるんじゃないですか。

お釈迦さまは真理を説かれました。

先ほど、人間は本物、つまり真実を追求する生きものだと言いましたが、私たちはそれをお経という形で、仏教として受け継いでいるんです。

この仏の智慧と慈悲に抱かれて、私たちの未来はひらけていくんです。

死んだら終わりだと言ってもらっては困ります。

浄土真宗では、浄土往生と言っておりますが、これは悟りの世界に

「往き」

「生まれる」

と書きます。

どこまでも未来形でしょう。

命日とは、いのちが終わった日じゃありません。

限りないいのち

「無量寿命」

の旅立ちの日なんですよ。

お葬式も、死んだ人の始末をする儀式なんかじゃありません。

以前あった、あるお葬式でのことです。

その家には、家出した道楽息子がいたんですが、父親が亡くなったことを知って帰ってきました。

親戚一同から

「今ごろ、のこのこと帰って来て」

と白い目で見られていました。

それで私は、その息子さんを呼んで

「今日はお通夜の晩であるが、お前の本当の意味での誕生日だ」

と伝えました。

それは、そのお葬式の日が息子さんにとって、生まれて初めて父親を仏として拝んだ日、その出遇いの日、人間が生まれ変わった日だという意味です。

仏教に後退さりの言葉はありません。

後悔の2文字もいりません。

過去をやり直すことはできなくても、見直すことはできます。

どんな良縁も悪縁も、私を育ててくれた年月でありましたと受け取れる人間になることが、往生浄土の道を歩いていく者のひらけゆく人生です。