この世の中のありさまを仏教では
「濁世(じょくせ)」
といいます。
この
「濁」
とは、にごっているということですが、それはそこにあるものの全てがぼんやりしているということです。
例えば、水が濁っていると、水の中にあるもの全てがぼんやりとしか見ることはできません。
言い換えると
「濁」
というのは、すべてが曖昧だということです。
では、何がはっきりせずにぼんやりしているのかというと、根本的には自分にとって自身が曖昧なのです。
そうしますと、濁世の濁ということの根本には、世の中が濁っているということの前に、自分にとって自身そのものが曖昧であるという事実が浮かび上がってきます。
人間は常に幸福を求めて生きている存在であると言われますが、自身が曖昧であるために、いったいどうすれば自分が本当に自分の生き方に満足することができるのか、あるいは自分が本当に求めているのはいったい何なのかが分からないままに、いろいろいなことを周りに求めてしまうことになります。
けれども、このようなあり方においては、たとえあれも満足し、これも満足したということがあったとしても、結局その一生を振り返ると、自分の人生とは何だったのかということについて、明確な答えを見いだせないままに終わってしまうことにならざるを得ません。
それは、一生懸命に生きたはずなのに、何のために頑張ったのか分からないままに終わってしまうことに他ならず、その人生が
「虚しかった」
という一言に集約されてしまうような惨めなあり方ですが、仏教ではこのようなあり方を
「不幸」
というのです。
『往生要集』を著された源信僧都は
「苦といい楽といい、共に流転を出でず」
と述べておられます。
流転というのは、我を忘れるとか、我を失うということです。
私たちは、苦しい状態にあっても、いま自分が苦しんでいるのは自らの内にその原因があるのではなく、外にあるのだとその苦境にあることの責任を他に転嫁するという形で我を失っています。
一方、楽しい状態にある時も、その楽しみの中に我を忘れて、時間を無為に過ごしてしまうものです。
そこに苦しみといっても、楽しみといっても、共に我を忘れたあり方というものを出ていない身の事実があります。
この苦しみというのは
「自情に逼迫(ひっぱく)」
してしまっている状態であるといわれます。
私の感情、気持ちにとって、今の状況は胸が苦しく、圧迫してくる、そういう状態として受け止めている時が苦しみなのです。
それに対して、楽というのは
「自情に適悦」
という状態で、自分の思いにピッタリしているというあり方です。
この場合、苦楽共に
「自情に…」
ということがポイントになります。
私が苦しい状況と感じていても、決して世の中に苦しい世界がある訳ではないのです。
事実は、一つの世界を私が苦しいものとして生きているということがあるだけなのです。
そのため同じような状態をある人は生きがいのある世界として生きるということがあり、他方自身にあっても今まで苦しみとしか感じなかったその世界が、今は楽しい世界として感じられるようになるということもあったりします。
したがって、同じような環境であっても、そこに大きな問題を荷なって生きがいをもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴ばかりを言って世の中を呪っている人もあったりします。
このように、私の
「自情」
というものを離れて苦しい世界とか楽しい世界が色分けされているのではなく、与えられている状況というものを私たちは苦しいものと受けとり、あるいは楽しいものとして受け止め生きているという事実があるだけなのです。
そうしますと、たとえ苦労が多いと感じる人生であったとしても、その中に生きがいが見つかることによって、実はこれらのことは自分が成長していく上で不可欠のことであったのだと頷くことができたりすることもあります。
そのような人生か不幸であるはずは、決してありません。