「がんとともに生きる」(上旬)「晴天の霹靂(へきれき)だった」27歳のがん告知

======ご講師紹介======

三好綾さん(NPO法人がんサポート鹿児島理事長)

☆演題 「がんとともに生きる」

昭和50年、鹿児島県薩摩川内市に生まれ。

国立長崎大学教育学部卒業。

平成14年4月、27歳のときに乳がんを告知され右胸を全摘出。

その翌年には、著書『乳がんなんてやっつけろ!!』を発刊。

その後、NPO法人ピンクリボンかごしまの事務局長に就任。

平成19年に、現在全部位のがん患者会、現在のがんサポート鹿児島の代表に就任。

また、ホームページ『うずの乳がんなんてやっつけろ!』管理人として、乳がんとたたかう患者や家族のネットワーク作りなどに尽力しておられます。

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私は、27歳のとき乳がんになりました。

当時、私は息子の授乳中だったんですが、あるとき右側のおっぱいの脇のところにしこりを見つけたんです。

それを触ってみると、ピンポン玉のようなものが入っていて、コロコロするような感じがしました。

お母さんになって分かったんですが、授乳中はおっぱいに出来物ができたり、硬くなったり。

いろんなトラブルがあるんですね。

最初はそれだと思いました。

全く痛い所もなく、普通の人だったら病院に行かないくらい、軽い症状に見えたんです。

私は当時、主人の仕事の都合で種子島に住んでいました。

毎日子育てしかすることがないものですから、たまには違った日常を味わおうと、病院に行くことにしたんです。

何科に行けばいいのか調べてみると、女性でしこりがある場合は、外科に行ってくださいと示されていたんです。

それで、書かれていた通り、外科のある小さな診療所に行きました。

そこで生まれて初めて検診を受けたんです。

27歳ですから、それまでがん検診なんてしたことはありません。

そこで触診や超音波検診など、いろんな検診をしました。

その中で、マンモグラフィー検査というものがありました。

それは、なかなか恥ずかしい検査なんです。

本当は授乳中の人は受けてはいけないんですが、私の場合は他の検査で異常が見つかっていたので、先生から授乳をやめて、マンモグラフィー検査を受けるように言われたんです。

恥ずかしくて受けたくなかったんですが、仕方なく受けました。

それを受けて、痛い人と痛くない人がいるんですが、私は痛かったんです。

まだその検査の段階では、私の頭の中にがんという文字は全くありません。

軽い症状だろうと思っていました。

その後、都市部の大きな病院を紹介してもらい、母も立ち会って診てもらいました。

そこで

「残念ながら悪いものでした。

若いのに可哀そうですが、おっぱいを全部取ることになります」

というがんの告知を受けたのです。

忘れもしない、桜のきれいな4月1日。

エイプリルフールの日でした。

告知を受けた私はすぐには信じられず、

「先生、誰のことを言ってるんですか」

と言いました。

受け入れることができませんでした。

先生は直接

「がん」

とは言わなかったんですが、何か恐いことを言われたと感じました。

だんだんと実感がわいてきて涙が出てきたそのとき、母が大きな声で泣きだしたんです。

母は

「うちの娘がそんなはずはありません。

何を言っているんですか」

と先生に詰め寄りました。

母がそんな状態だったせいか、私は反対に冷静で、

「お母さん、しょうがないよ。

先生も困ってるよ」

と言って、母をなだめました。

がん患者が家族を励ましていましたね。

とにかく、私ががんの告知を受けたのは、晴天の霹靂だったんです。

告知をされて、いろいろ調べているうちに

『セカンドオピニオン』

を知りました。

がんのような大病のときに、主治医の先生だけではなく、別の先生にも相談することができる制度です。

そこで私は、3人の先生に診てもらうことにしました。

他の先生にがんを否定してほしかったですし、女性にとって大切なおっぱいを切らずにすむ可能性を信じたかったんです。