親鸞聖人は、阿弥陀仏を意味する
「尽十方無碍光如来」
という名号を解釈されるにあたって、
「尽十方」とは、
「無碍」とは、
そして
「光如来」とは
という区切り方で、その意味を明らかにしておられます。
一般には、
「無碍光」とは、
「如来」
とはという区切り方をして解釈を施されるのが普通だと思うのですが、親鸞聖人は
「光如来ともうすは阿弥陀仏なり」
と述べておられます。
これは、阿弥陀仏という存在があって、その阿弥陀仏自身が光るのではなく、光の他に阿弥陀仏という存在はないということを明らかにしておられるのだということです。
つまり、阿弥陀如来とは光如来であり、光のはたらきそのものだということです。
もちろん光のない仏はありません。
仏である限り、その身には必ず光明があります。
けれども、それは、仏としての徳を成就した相として自然とその身にそなわったのであり、光が成就することを以て仏の本願の成就とされた訳ではありません。
ましてや、光としてのはたらきをもって自らのいのちとしておられることはないのです。
けれども、阿弥陀仏は
「私の光に限りがあって、よく照らすことの出来ないところがあるようならば、私は仏にはなりません」
という願の成就した名なのです。
それはあらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をことごとく光あらしめるまで、わが光を成就しようという名告りです。
「尽十方無碍なる光明」
それが阿弥陀仏そのものなのです。
そして、このことを端的に示しておられるのが
「光如来」
という区切り方だといえます。
ですから、阿弥陀仏という名告りと、尽十方無碍光如来という名告りとは、同じことなのです。
ところで、親鸞聖人は
「無碍光仏は光明なり、智慧なり。
この智慧はすなわち阿弥陀仏」
と示しておられます。
なぜ、仏の智慧を光明をもって表されているのでしょうか。
私たちの眼を
「借光眼」
といいます。
何でも見えているようですが、光の力を借りないとものを見ることが出来ないからです。
したがって、光がない時、私たちに出来ることといえば、手さぐりをすることだけです。
そのため、智慧の光をもたない時の私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他はありません。
手さぐりの生活とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにて生きていくということです。
そして、自分の判断、自分の体験だけを唯一の頼りとして生きていくということになると、私たちはどうしても物の見方が一面的になり、自分の体験にとらわれてしまって、なかなか物事の本質を見抜けなくなってしまいます。
しかも、その体験を後生大事に抱え、それを絶対的な尺度にして人生を解釈してしまうことにさえなります。
光明としての智慧がないとき、人は必ずそういう過ちを犯してしまうのです。
このようなあり方を仏教では
「空過(くうか)」
と言います。
空過といっても、ただ何となく一生を過ごしてしまったというのではありません。
その人も一生懸命に自らの人生を生きたのです。
けれども結局、一生懸命に生きてきたにも関わらず、ただいろんな思い出だけが残ったというだけで、何のために一生懸命に生きたのかということも分からないままに空しく終わってしまうのです。
手さぐりの生活では、手さぐりをしている自分自身の姿を見ることは出来ません。
そのため、自分自身に目覚めるということもないのです。
仏教の智慧が光で表される第一の意味は、私たち一人ひとりに抜きがたくあるところの、自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるということです。
言い換えると、仏法の智慧というのは、あれも知っている、これも知っているとうことではなく、まわりがはっきり見えるということです。
そして、そのことは同時に手さぐりしている自分自身がはっきり見えてくるということです。
この見えてくるということは、ただ単に周りが見えるということではなく、その事実にしたがって生かされていくということです。
そして、それがたとえ今まで自分の体験によって培ってきた物の考え方をその根底から否定し、ひっくり返されるようなことに出会っても、それが事実である限り、事実を事実として受け止め、生きてゆく情熱としてはたらくものなのです。
これからの一年、私たちの人生にはいったい何が待ち受けているか分かりませんが、阿弥陀仏の慈光(みひかり)に照らされて、かけがえのない人生を勇気を持って生きて行きたいものです。