「本願海流」(下旬) お慈悲の光線に

 ところが、よく仏さまの教えを聞いてみましたら、その自分こそ、実は阿弥陀さまのご本願に抱き取られている自分だということが分からせてもらえるのです。

これが

「機の深信と法の深信」

と言われているものです。

「機の深信」

とは、助からん自分のことを言います。

私の正体を深い内省によって、仏さまに照らされることによって自覚することですから、

「地獄行きの私だ」

というのが機の深信なんです。

そのような存在が、お浄土なんて到底往けるはずがないんです。

 親鸞聖人の

「一念多念証文」

の中に

「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」

とあります。

 

「無明煩悩われらが身にみちみちて」

真っ暗闇の心が自分の心の奥底にある。

そして

「欲もおほく」

「この頃、とんと欲がなくなりました」

とか言う方がいらっしゃいますが、あれは元気がなくなっただけなんです。

だって最後は

「死にとうない」

という欲があるんですから。

これが凡夫の正体なんです。

これが、仏さまに見抜かれた私の姿なんですね。

 凡夫とは、ただ有限な存在だとか、力が足りない存在だとか、そんな単純なことじゃないんです。

絶望的な存在のことを凡夫というんです。

それは自分の力では見えません。

仏さまのお慈悲の光線に照らされて、初めて真っ暗闇の自分が分かるんです。

 このことが分かった時、願力に乗じて往生できる、

「往生間違いなし」

と知ることができます。

それを

「法の深信」

というんです。

「絶対に助からない私が絶対に助かるんだ」

という論理が、阿弥陀さまのお慈悲というものなんです。

助けることの出来ないものを助けようというところに、人間と違う仏と呼ばれる広大無辺なお慈悲があるんですね。

これが、私たちが生きているこの世界の一番深いところにはたらいておったということを最初に発見されたのが、お釈迦さまなんですね。

つまり、阿弥陀さまのご本願を発見なさったんです。

 そして、阿弥陀さまとは、大きないのちのことです。

阿弥陀さまという特別な方がどこかにいらっしゃるのではなくて、あるゆる生きものを生きものたらしめている、目には見えないけれども感じることのできる大きないのちを

「阿弥陀」

というんですよ。

 そして、この阿弥陀さまから発せられる光線は、物質的なエネルギーと違うから慈悲というんです。

冷たい法則ではないから、慈悲です。

お釈迦さまの口を通して、その大きないのち自身が語り出て下さったのを、阿弥陀さまのご本願

「南無阿弥陀仏」

と言うんです。