読み過ごしがちな新聞の投書欄には、幅広い年代の人たちがいろいろなことを寄稿しています。
それを読むと、世の中の空気や人々の関心事が述べられているように窺えます。
また、時には宗教や寺院に対する素朴な声も散見されます。
その中の一つに、次のようなものがありました。
報恩講法座を聴聞させていただいた。
お経が始まった直後、急にせきが出てきた。
外に出て咳き込んでいると、坊守さんがお茶を持ってきてくださった。
あたたかいほうじ茶がのどを心地よく潤してくれた。
おかげでせきも治まり本堂に戻ると、八十歳前後のご婦人が
「せきに効くよ」
とアメを持たせてくださった。
「逆の立場だったらどうしただろう」
と思うと、うつむかざるを得なかった。
「生かされているいのち」
とよく聞くが、正直その実感がなかった。
この日の法座で
「仏法は自分の人生の中で味わうもの。
わが身はさまざまなご縁の中に生かされている」
とのご講師の言葉が耳に留まり、ハッとした。
お茶とアメに託してその意味を気付かせてくださったのかもしれない。
【中国新聞・広島県・63】
仏教には学び方が二通りあると言われます。
一つは「解学」。
これは、仏教についてのいろいろな知識を身に付けて理解していくという在り方です。
もう一つは「行学」。
これは、学んだ教えを生活の中で学んでいくという在り方です。
例えば「愛別離苦」という教えがあります。
「愛する人とはいつまでも一緒に居たいものだが、どちらが先かは分からないけれど、いずれ死別という一番悲しい形で別れていかなくてはならない」
ということです。
確かに、人生は出会いと別れの繰り返しですから、これを教えとして学ぶ時には、
「確かにそうだな」
と容易に頷くことが出来ます。
けれども、実際に自分の愛する人、大切な人、肉親が亡くなった時には、その事実に簡単に頷くことは難しいものです。
「もしかすると、一晩寝て目が覚めると、実は夢だった」
と思いたいものですが、現実はなかなか私の期待するようにはなりません。
「愛別離苦」
こそが、私の現実だからです。
このように、知識として身に付けた教えを生活を通して学んでいく在り方が行学ですが、それは解学の前提があってこそです。
新聞に投書なさった方も、
『「生かされているいのち」とよく聞くが、正直その実感がなかった』
と述べておられます。
けれども、日頃聞いておられたからこそ、咳き込んだ後のお茶とアメを通してそのことを実感することが出来たのだと思われます。
そして、このような尊い事実を伝えて下さる方がいらっしゃるからこそ、私たちは今自分が歩いている念仏の道が、確かな道であることを知ることが出来るのだと思います。