火の狂った奔牛は、三、四町ほど駈けて行って、忽然(こつぜん)と横に仆(たお)れてしまった。
牛が仆れると、燃えていた車蓋は、紅い花車(はなぐるま)が崩れるように、ぐわらぐわらと響きを立てて、解(ほぐ)れてしまった。
そして、蓋(おい)も、御簾(みす)も、轅(ながえ)も、一つ一つになって、めらめらと地上に美しい炎の流れを描いた。
介は、発狂したように、
「和子様ッ」
と、飛んで行った。
そして、必死になって、崩れた炎の板や柱を、ばらばらと、手で退(の)けてみた。
何らの熱さも感じなかった。
当然、その中にいる十八公麿は、彼の想像では、もう焼け死んでいるはずだった。
けれど、車の下に何ものもなかった。
「あっ……。途中で?」
介は、不安とよろこびと、二つの中に立って、そういった。
「……途中で、振り落とされたか、ご自身で飛び降りたかなされたであろう、ああ、よかった」
見ると、牛は、もう焼け死んでいた。
巨(おお)きな横っ腹を膨(ふく)らませて、足を曲げたまま、真っ黒になっていた。
まだ多少の呼吸(いき)をしているらしく、唇から白い泡が煮えていた。
介は、思わず眼をそらした。
曠野(こうや)は、真っ赤に染まっている。
誰か来て消さない以上、この火は、あしたの朝までつづくかも知れない。
それにしても、十八公麿が、こちらに見えないのはまだ不安である。
安心するには早すぎる。
一人で、六条まで帰れるはずはないし、さだめし、どこかで泣いて、自分の姿をさがしているにちがいない――
「おうっ――いッ」
介は、両手は唇のはたに当てて、全身の声で呼んでみた。
「和子さまあッ――」
返辞はなく、声は、いたずらに、野末のあらしになって、真っ暗に、消えてゆく。
「…………」
呼ぼうとして、涙が、眼につきあげてきた。
もしものことがあったらどうしよう、腹を切って、おわびをしても済まないことだ。
さっきの牛よりも、狼狽(ろうばい)して、狂気じみた彼の影が、それから脱兎のように、野を駈けまわったが、十八公麿は見えないのである。
「どこへおいで遊ばしたぞ。――介はここにおりますぞ。十八公麿様っ」
声も、おろおろとしてくるのであった。
すると、河岸へ寄った堤(どて)の上を一人の男が、誰やら、背に負って走って行くのが見えた。
堤の下まで、炎は這っていたし、空が赤いので、黒い人影が、はっきりと介の眼に映じた。
「やっ、和子様ではないか。
――そうだ、和子様にちがいない。
おのれ、成田の郎党めが」
夜叉のように、介は、堤を目がけて飛んで行ったが、枯れ芦の沼がいちめんに、そこを隔ててするので、遠く迂回(まわ)らなければ、堤にはのぼれなかった。
気が急(せ)くし、足は自由にならない。
沼水はかなり深かった。
介は膝まで濡れた足をもどして、半町ほど後ろから、堤へ這い上がった。
もう、さっき見た人影は、遠く去って、わからなかった。
介は、地だんだを踏んで、
「畜生」
と、さけんだ。
そして、堤の上を、鬼のように髪を後ろへなびかせて走った。
烏帽子(えぼし)は背へ落ちて、躍っていた。