小説 親鸞・紅玉篇4月(4)

火の狂った奔牛は、三、四町ほど駈けて行って、忽然(こつぜん)と横に仆(たお)れてしまった。

牛が仆れると、燃えていた車蓋は、紅い花車(はなぐるま)が崩れるように、ぐわらぐわらと響きを立てて、解(ほぐ)れてしまった。

そして、蓋(おい)も、御簾(みす)も、轅(ながえ)も、一つ一つになって、めらめらと地上に美しい炎の流れを描いた。

介は、発狂したように、

「和子様ッ」

と、飛んで行った。

そして、必死になって、崩れた炎の板や柱を、ばらばらと、手で退(の)けてみた。

何らの熱さも感じなかった。

当然、その中にいる十八公麿は、彼の想像では、もう焼け死んでいるはずだった。

けれど、車の下に何ものもなかった。

「あっ……。途中で?」

介は、不安とよろこびと、二つの中に立って、そういった。

「……途中で、振り落とされたか、ご自身で飛び降りたかなされたであろう、ああ、よかった」

見ると、牛は、もう焼け死んでいた。

巨(おお)きな横っ腹を膨(ふく)らませて、足を曲げたまま、真っ黒になっていた。

まだ多少の呼吸(いき)をしているらしく、唇から白い泡が煮えていた。

介は、思わず眼をそらした。

曠野(こうや)は、真っ赤に染まっている。

誰か来て消さない以上、この火は、あしたの朝までつづくかも知れない。

それにしても、十八公麿が、こちらに見えないのはまだ不安である。

安心するには早すぎる。

一人で、六条まで帰れるはずはないし、さだめし、どこかで泣いて、自分の姿をさがしているにちがいない――

「おうっ――いッ」

介は、両手は唇のはたに当てて、全身の声で呼んでみた。

「和子さまあッ――」

返辞はなく、声は、いたずらに、野末のあらしになって、真っ暗に、消えてゆく。

「…………」

呼ぼうとして、涙が、眼につきあげてきた。

もしものことがあったらどうしよう、腹を切って、おわびをしても済まないことだ。

さっきの牛よりも、狼狽(ろうばい)して、狂気じみた彼の影が、それから脱兎のように、野を駈けまわったが、十八公麿は見えないのである。

「どこへおいで遊ばしたぞ。――介はここにおりますぞ。十八公麿様っ」

声も、おろおろとしてくるのであった。

すると、河岸へ寄った堤(どて)の上を一人の男が、誰やら、背に負って走って行くのが見えた。

堤の下まで、炎は這っていたし、空が赤いので、黒い人影が、はっきりと介の眼に映じた。

「やっ、和子様ではないか。

――そうだ、和子様にちがいない。

おのれ、成田の郎党めが」

夜叉のように、介は、堤を目がけて飛んで行ったが、枯れ芦の沼がいちめんに、そこを隔ててするので、遠く迂回(まわ)らなければ、堤にはのぼれなかった。

気が急(せ)くし、足は自由にならない。

沼水はかなり深かった。

介は膝まで濡れた足をもどして、半町ほど後ろから、堤へ這い上がった。

もう、さっき見た人影は、遠く去って、わからなかった。

介は、地だんだを踏んで、

「畜生」

と、さけんだ。

そして、堤の上を、鬼のように髪を後ろへなびかせて走った。

烏帽子(えぼし)は背へ落ちて、躍っていた。