小説 親鸞・紅玉篇4月(6)

十八公麿の手をひいて、館の坪の内へ入ると、養父の範綱も、吉光の前も、

「おお、無事か」

「怪我はなかったか」

一家が、こぞって転ぶように縁先へ出てきた。

先に逃げ帰った車の牛飼から、途中の変を聞いて、おろおろと案じていたところだった。

その危うい野火の中から、十八公麿を救って、ここまで負(おぶ)ってきてくれた男が、以前、成田兵衛の郎党だった庄司七郎であったと話すと、範綱は、

「さてこそ……」

と、思いあわして、うなずいた。

「ここの厩舎(うまや)の獄(ひとや)から、縄を解いて、放ってやった七郎というあの侍は、その後、主家の兵衛から、役に立たぬ不届き者と、家をも扶持(ふち)をも奪われて牢人となり、菰僧に落ち魄れていると聞いたが……。

それでは、当時の和子の情けや、当家の恩義を忘れかねて、あやうい機(おり)に、働いてくれたとみえる。

人には情けをかけておくものじゃ、ありがたいお人ではある」

彼が、介や箭四郎たちに、そう語っているあいだ、吉光の前は、十八公麿をつれて、坪の石井戸のそばに立たせ、下婢(かひ)の手もからずに、自身で水を汲みあげて、よごれている足や手を洗ってやっていた。

そして奥の部屋へ、抱き上げてくると、衣服を出して、着かえさせたり、摺り傷をあらためて、薬を塗(つ)けたりして、

「和子よ」

と、涙ぐんだ。

「――今日の禍(わざわ)いは、幸いに怪我もなくすぎたが、この後とも、一身を大事にまもらねばなりませぬぞ。

心に、油断があってはならぬぞ。

そなたの身に、もしものことがあったら、この母は、どうしましょう」

それから、夜の更けるまで、いろいろと、十八公麿のゆく末のことを案じて、いいきかせた。

それが、母と子との、最もしみじみと心で抱き合った最後の夜であった。

石井戸に立って、水づかいをしていた時に、寒気がするとつぶやいていた彼女は、その夜から、寝間を出ずに、幾日も閉じこもった。

良人(おっと)にわかれてから、とかく、病みがちであった彼女には、病気以外に、二人の遺子を抱えて、また、範綱の苦しい家計や、世難(せなん)の悩みをながめて、共々に、やすらかな日を味わう暇もなく暮らしてきた。

風邪気味と、かろく自分でも考えていた数日のあいだ、彼女の若さも、肌も、病魔の鉋(かんな)に削られて、眼にも驚かれるばかり、痩せ細ってしまった。

「オオ……何やら美しい……蓮花(はちす)がにおう……妙なあの音は、笙(しょう)の音か、頻伽(びんが)の声か。

……蓮華が降る、皆さま、蓮華が降って、私の顔にかかります」

信仰の深い彼女は、熱がたかくなると、うわ言をいって、細いろうのような手を、うごかした。

【これはいけない――】範綱は、暗然として、枕もとに泣いている十八公麿と、朝麿、二人の幼い者のすがたを見た。

「六条さま、どうぞ、お慈愛をおかけくださいませ。……その二人のものを」

衰えた眼が、かなしげに、枕からじっと仰いだ。

そして、何ものかに命じられたように、白い掌を合わせて、にこと、微笑んだ。