親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(4)

後ろでひしめいている学僧たちの中で、

「阿闍梨、よけいなことは仰せられずに、一同の疑問について、疾く、糺されい」

と、誰かがどなった。

四王院は、うなずいて、

「座主!」

と膝をすすめた。

「――今日、吾々が推参いたしたのは、二十八日の大戒について、ちと、解せん儀があって参ったのでおざる」

「ご不審とな、何なりと、問われい」

「ほかではない」

静慮院も、共々に、詰問の膝を向けて、

「当、叡山はおろか、日本四カ所の戒壇においても、まだかつて、範宴のごとき童僧が、伝法授戒をうけた例(ため)しは耳にいたさぬが、そも、座主には何の見どころがあって、敢て、法城の鉄則を破ってまで、あの稚僧に、戒を授けらるるのか……。それが解せんことの第一義でござる」

慈円は、ほほ笑んで、

「はてさて、仏徒のまじわりもひろい。一院一寺をもあずかるおのおののことゆえ、それくらいなことは、ようご会得と存じていたが」

「山の鉄則を紊(みだ)すような、さような心得は、相持たん」

「ははは、余りにも、お考えが狭い。いわゆる、法を作るもの法に縛らるの喩(たと)え。そもそも、授戒のことは、必ずしも、年齢を標準にはせぬものじゃ。年さえ、加えれば、誰でも、大戒をゆるさるるとあっては、刻苦する者がなくなるであろう」

「詭弁(きべん)っ」

と、またうしろの法師頭の中から強くいう者があった。

四王院は、それら激励されて、

「――あいや、おことばには候が、十年二十年、この叡山に、苦行を積んでも、なおかつ、入壇はおろか、伝法のことすら受けぬものが、どれほどあるか」

「それは、ひとの人の天稟(てんぴん)がないか、あるいは、勉学が足らぬかの、ふたつでおざろう。――容(かたち)のみ、相(すがた)のみ、いかにも、荒かに、苦行精進いたすようになっても、秋栗の皮ほども、心のはじけぬ者もある。生れながらの団(どん)栗(ぐり)であればせひなき儀と思うよりほかはない」

「いや!谷の者らが、専ら取り沙汰するところによると、座主の僧正には、少納言に対して、依怙(えこ)を持たれると承る」

「それは、問わるるまでもなかろう」

「何ですと――では、明らかに、依怙贔屓(えこひいき)だと仰せられるか。――何とおのおの、そう聞いては、もう議論のほかじゃないか。座主は範宴を盲愛していられるのだ。私情のために、大法を蹂躙(ふみにじ)らるるとの自白だ」

喚き立てると、

「ひかえなされい!」

若い座主の面に、初めて、青年らしい血しおが、漲(みなぎ)った。

「わしは、範宴の天稟を愛す。わしは、範宴のすぐれた気質を愛す。見よ、彼は将来の法燈を、亡すか、興隆するか、いずれかの人間になろう。叡山人多しといえど誰か、十歳を出たばかりの範宴にすら勝る法師やある。

――その才において、その克己(こっき)おいて、その聡明において、その強情我慢なことにおいて。……嘘と思わるる方あらば、彼をここへ呼んで、まず、法論を闘わせてみられるがよい。和歌といわば和歌、儒学とあらば儒学、おそらく少納言は否むまい。望みの者は、仰せ出られい」