あさましいこの女の狂態を見るにつけて、範宴は、一昨日(おととい)、鍛冶ケ池の畔(ほとり)で逢った弟のことを思い出した。
弟は、あの時、池のふちで年ごろの若い娘と列(なら)んでいた。
まさか、人目にとやこういわれるほどのことではあるまいが、弟は、自分とちがって、蒲柳(ほりゅう)だし、優しいし、それに、意志がよわい。
範宴が、今度、叡山を下りてから、何よりもふかく多く心に映ったものは、
「女」
だった。
女のいない山から下りてみると、世間は女の国に見える。
女だらけに見える。
わずらわしいことにも思い、何か急に明るい気もちもして、自分の年頃に、おぼろな不安と温かさを醸(かも)していた。
「お師さま、弱りました」
さっきから、女をなだめすかしていた性善房は、持てあましたようにいった。
「どうしても、家へ帰らないというのです」
範宴が今度は、
「宇治かの、おもとの家は」
と訊いた。
「いやです。帰るくらいなら、一人で帰る」
「そういわないで、私たちも、宇治の町へ行く者です。送ってあげよう」
「くどい坊さんだね」
「私たちの使命ですから、気に食わないでも、ゆるして下さい。私は、おもとを幸福にしてあげたいのだ」
「笑わすよ、この人は。人間を幸福にしてやるなんて、そんな器用なまねが、人間にできるものか」
「私の力ではできません。仏の御力(みちから)で――」
「その仏が、私は大嫌いだよ。――死にたいというのに、邪魔をするし、嫌いだというものを押しつけるし、お前たちは、人を不幸にするのが上手だよ」
「とにかく歩きましょう」
「嫌――」
「おもとの望みのようにして上げたらよかろう」
「わたしの望みは、わたしの男を自分のものにすることだ」
「やさしい願いではありませんか」
「とんでもないことをおいいでない、男には、ほかに、女ができているんだよ」
「その男とは、おもとの良人(おっと)でしょう」
「まだ、ちゃんと、何はしないけれど……」
「ようございます。私どもが真ごころを尽して、男の方に申しましょう。わるいようにはしない……さ、歩いてください」
やっと、宇治の町まで連れてきて、女の家をたずねると、
「そこ――」
と、裏町の穢(きたな)い板長屋の一軒を指さした。
御烏帽子作国助と古板に打ちつけてある。
範宴が、板戸をたたいて、
「こん晩は」
訪れると、その隙に、女は性善房の手を振り椀(も)いで、逃げようとした。