親鸞・去来篇 10月(6)

二十歳のころまでは太刀を帯びて侍奉公したこともある性善房なので、刃(やいば)を突きつけられたからといって、にわかに顔色を失うほどの臆病者ではなかった。

「貴様は、身をもって、範宴の楯になるといったな」

「はい」

「くだらぬ強がりはよせ。それよりは、俺に、範宴を会わせろ。……嫌か、嫌ならば、抜いた刀だ、ただは鞘にかえらぬが、覚悟か」

「…………」

「覚悟か、やい」

ふた声目がかかると、弁海の手は、刃をさっとふりかぶって、睨(ね)めつけた。

風を割って、白い光が、相手のすがたを斜めにかけて走ったかと思うと、小さい埃が上がって、性善房のすがたは、彼方の草むらへ跳んでいた。

「弁海、さほど、自分の愚鈍が口惜しいならば、心を砥(と)にかけて、勉学をし直してこい。そうして、一人前の人間になれたら、師の御房に会わせてやろうし、第一、そのほうも救われるというものだ」

そこから性善房がいうと、

「なにっ」

柿色の篠懸(すずかけ)を躍らして、

「野郎、うごくな」

と弁海は、眼をいからせて、躍りかかってきた。

「あっ――」

よろめくように、性善房は逃げだした。

「待てっ」

うしろから迫る怒号を耳にしながら、彼は、坂の上まで、息もつかずに出た。

そこまで登るともう広やかなる耕地の彼方に、奈良の丘や、東大寺の塔の先や、紅葉(もみじ)した旧都の秋が、遥かに望まれてきたのであったが、ふと思うことには、万一このまま奈良の町へ入って、範宴が、そこに自分を待ってでもいたらはなはだまずいものになろうという懸念であった。

いったい、弁海と師の房とは、どういう宿縁なのか。

師の房は、彼を憎んだことも、墜(おと)し入れたこともないのに、幼少から今日まで弁海が範宴を憎悪することはまるで仇敵のようである。

日野の学舎で、自分より小さい者に、学問や素行においても、絶えずおくれていたことが、幼少の魂に沁みて、口惜しくて、忘れられないのか。

糺の原で、他人を、野火に墜(おと)し入れようとした悪戯(わるさ)が、かえって、自分を焼く火となって手痛い目に会ったので、その遺恨が、今もって、消えないのか。

いや、なかなかそんなことではあるまい。

要するに、成田兵衛という者の家庭は知らないが、家庭の罪に違いない。

全盛の世には、思いあがらせて育て、没落する時には、ねじけ者に作ってしまったものだろう。

そして、すべての逆境が、みな自分の罪とは思わず、他人のせいのように考える人間が、いつとはなく、今日の弁海になってきたのではあるまいか。

(こんな、ねじけ者に、範宴様を会わせて、怪我でもおさせ申したらつまらぬことだ。逃げるにしくはない)

性善房は、道を横に反らして、眼をつぶって、どこまでも逃げた。