春はあけぼの。春のあれヤバい。

春はあけぼの。

やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる。

有名な『枕草子』の一節です。

現代語に訳すと

春は、あけぼの(夜明けの太陽)の頃が趣深い。

だんだんに白くなっていく山際(山の稜線に接する空の部分)が

少し明るくなって、紫がかった雲が

細くたなびいているところが趣深い。

といった感じになります。

ちなみに、筆者の清少納言は、他の季節について

「夏は、夜」

「秋は、夕暮」

「冬は、つとめて(早朝)」

が、それぞれに良いと綴っています。

その理由として、

夏は、夜が趣深い。

月の頃は言うまでもなく、闇の夜も蛍がたくさん飛びかっているのが趣深い。

また、ただ一つ二つなど、ほのかに光って飛んで行くのも風情があり、雨などが降るのも趣がある。

秋は、夕暮れが趣深い。

夕日がさして山際(山の稜線)にたいそう近くなっているところに、カラスがねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽などと、急いで飛んでいくのまでもしみじみと感じられる。

まして、雁などの列をつくっているのがとても小さく見えるのは、たいそう趣がある。

日がすっかり沈んで、風の音や虫の音など、またあらためていうまでもないほどいい。

冬は、早朝が趣深い。

雪が降っているときはいうまでもなく、霜がとても白いときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを急いでおこして、炭を持って部屋へと廊下を通って行くのもとても冬の朝に似つかわしい。

昼になって、気温が温かくなり、寒さがゆるくなっていくと、火桶も白い灰がちになってよくない。

と、述べています。

『枕草子』は、高校の古典の教科書などに取り上げられていることからよく知られていますが、

「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」

に代表される「ものづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、清少納言が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った「回想章段」(日記章段)など、多彩な文章から成り立っています。

平仮名を中心とした和文で綴られ、総じて軽妙な筆致の短編が多いのですが、中関白家の没落と主君・中宮定子の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情を吐露する個所も見られたりします。

同時代に紫式部によって著された『源氏物語』が、心情的な「もののあはれ」を基調としているのに対し、『枕草子』は筆者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、知性的な「をかし」の美世界を現出させていると評価されています。

ところで、鎌倉時代に『徒然草』を著した兼好法師は、その書の中で当時の言葉の乱れを歎いているのですが、もし語彙力のない現代人が『枕草子』の一節を現代語に訳すと、いったいどうなるのでしょうか。

春のあれヤバい。

なんか白くなる山のところ

少し明るくて、

紫の雲の細いのヤバい。

夏の夜はヤバい。

月の頃はもっとヤバい。

闇はメッチャいい。

ホタルがメッチャ飛んでる。

また、一つ二つ、光るのもヤバい。

雨の降るのもヤバい。

秋の夕暮れはヤバい。

夕方ごろ、山のはじが近くなって

鳥メッチャ飛んでる。

雁など、小さく見えて相当パない。

風の音、虫の音は、超すごい。

冬の明け方はヤバい。

雪や霜の日は超寒いけど好き。

寒いとき火をおこして炭をもっていくの似合う。

昼に火桶の日が白い灰になるのはダサい。

まさか、テストで『枕草子』の一節が出題され、「現代語訳しなさい」という設問に対して、上記のような解答をする人はいないと思いますが、もしそういう人がいたら、きっと「現代誤訳」ということになるのでしょうか。

「言葉は生き物」と言われます。

最初その言葉本来の意味・読みとは違った意味・読みで誤って使われていたものが、いつの間にかその誤った使い方が定着すると、やがて「正しい」ということになってしまったりします。

その過渡期に「言葉の乱れ」が問題になったりする訳ですが、『枕草子』や『徒然草』などが、現代では「古典」として扱われているように、「現代語」で書かれた文章も、もしかすると将来は「古典」として扱われるようになるかもしれませんが、「春のあれヤバい…」みたいなのは…、いったいどうなるんでしょうね。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。