すると、旅人の群れのうちから、
「おお、おお」
一人の老婆が、同情の声をあげて、そこらに立っている往来の者たちに、
「おまえ方は、なんで手をつかねて、見物していなさるのじゃ。人の災難がおもしろいのか」
と、叱りつけた。
そして、すぐ自分は、範宴のそばへ寄って、
「この辺は、野伏(のぶせ)りが多いから、悪いやつに遭いなされたのじゃろう。オオ、オオ、体も氷のように冷とうなって、さだめし、お辛いことでござったろうに」
老婆の行動に刺戟されて、それまで憚(はばか)っていた往来の者が、われもわれもと、寄りたかって、性善房の縄を解いたり、朝麿をいたわったりして、ある者はまた、
「わしの家は、この丘のすぐ下じゃ。火でも焚いて、粥でも進ぜるほどに、一(いっ)伴(しょ)にござれ」
と、いいだした。
馬を曳いている馬子はまた、
「駄賃はいらぬほどに、そこまで乗って行かっしゃれ」
と、朝麿へすすめて歩きだした。
「路銀を奪(と)られなすったろう。これはすくないが」
と、金をつつんで喜捨する人々もある。
天城四郎のことばを聞けば、この社会(よのなか)ほど恐ろしい仮面につつまれているものはないと思えるし、こうして、うるわしい人情の人々にあえば、この世ほど温かい人情の浄土はないと思われもする。
三名は、麓の農家で、充分に体をあたため、飢えをしのぎ、あつく礼をのべて、やがて昨日とかわらぬ冬の日の温かい街道へ立ち出でた。
河内ざかいの竜田街道の岐(わか)りまで来ると、範宴は、足をとめて、
「性善房、わしは、少し思う仔細があって、これから磯長(しなが)の里へまわりたいと思うが……」
「ほ、石川郷の叡福寺のある?……」
「そうじゃ、聖徳太子と、そのおん母君、お妃、三尊の御墳(みつか)がある太子廟へ詣でて、七日ほど、参籠(さんろう)いたしたい」
「さようでございますか。よい思い立ちとぞんじますが、朝麿様もおつれ遊ばしますか」
「いやいや、ちと、思念いたしたいこともあるゆえ、この身ひとりがこのましい。そちは、朝麿を伴(ともの)うて、京都のお養父上にお目にかかり、かたがた青蓮院の師の君にもおとりなしを願うて、ひとまず弟の身を、家に帰してくれい」
「かしこまりました」
「朝麿」
と、向き直って――
「おもとにも、異存はあるまいの」
「はい……」
しかし、朝麿の心には、どうしても、梢のことが、不安で、悲しく、このまま自分ばかり京都へもどることは心がすまない様子であった。
「たのみますぞ」
範宴は、性善房にそういうと、やがてただ一人で河内路の方へ曲がって行った。