親鸞・去来篇1月(2)春のけはい

この世に――この日(ひ)の本(もと)に生れてきた自分の使命が何であるかを、範(はん)宴(えん)は自覚した。

同時に、

(自分は二十歳にして死んだものである)という観念の下(もと)から新しく生れかわった。

この二つの信念は、磯(し)長(なが)の廟(びょう)に籠った賜物(たまもの)であった。

聖徳太子からささやかれた霊示であると彼は感激にみちて思う。

けれど、

(では一体、自分は何をもって、その思い使命を果すか)となると、彼はまた混沌(こんとん)たる迷いの子になった。

太子廟(びょう)の壁(へき)文(ぶん)には、

――日域(にちいき)は大乗相応の地、あきらかに聴けわが教令を。

とあった。

けれどもそれは暗示であり、提案である、

「わが教令を聴け」

といわれても、太子のふまれた足蹟(そくせき)はあまりに偉大であり、あまりに模糊(もこ)としている。

「――聴く耳がなければ」

と範宴は新しくもだえた。

「聴ける耳がほしい」

迷える彼は、それからいずこともなく二年のあいだをさまよいあるいた。

東大寺の光円を訪れ、唐招提寺(とうしょうだいじ)をたたき、そのほか、法燈のあるところといえば、嶮(けわ)しさに怯(ひる)まず、遠き倦(う)まず、雨や風に打たれても尋ねて行った。

けれど、彼の求める真理の鍵(かぎ)はなかった。

太子がひろめられた教令のかたちはあっても、いつか、真理のたましいはどこにも失われていた。

堂塔(どうとう)伽藍(がらん)はぬけ殻であった。

ひとり叡山(えいざん)ばかりがそうなのではない。

求めるものが求められないのみか、さまよえば、さまようほど、彼の迷いは濃くなってゆく。

二年あまりを、そうして、あてどもなく疲れあるいた彼は、ふいに、青(しょう)蓮院(れんいん)の門前にあらわれて、取次を乞い、見ちがえるほど痩せおとろえた姿で、師の慈(じ)円(えん)僧正のまえに坐った。

慈円は、ひと目みて、

「どうしたのじゃ」

と驚いていった。

範宴は、あまりに消息を欠いたので、師の房(ぼう)を見舞うつもりで来たのであるが、その師の房から、先に見舞われて、

「べつに、自分は変りもございませんが……」

と答えた。

彼のつよい精神力は、ほんとに、自分の肉体のおとろえなどは、少しも気にしていなかったのである。

「かわりはないというが、ひどく痩せたではないか。

第一、顔の色つやも悪い。

叡山(えいざん)にいたころのおもかげもありはしない」

「そう仰せられてみますと、あるいはそうかもしれませぬ。

どうか、一日もはやく生涯の――いや人類永劫(えいごう)の安心と大決定(だいけつじょう)をつかみたいと念願して、すこし修行に肉体をいじめましたから……」

「そうであろう」

慈円は、傷(いた)ましいものを見るように、彼の尖(とが)った肩や膝ぶしを見まもるのであった。

稚子(ちご)髪(がみ)の時代の十八(まつ)公(ま)麿(ろ)が、いつまでも、慈円の瞼(まぶた)にはのこっていて、そのころの何も思わない艶(つや)やかな頬と今の範宴とを心のうちで思いくらべているのであった。

「おん身は今、焦心(あせ)っている。火のように身を焦(や)いて真理をさがしているのであろう。それはよいが、体をこわしてはなるまいが」

と、慈円は愛(いと)し子(ご)を諭すようにいった。