親鸞・去来篇 2014年2月1日

性善坊が迎えにきていた。

「お師さま、あまり遅くならぬうち――」

そばへ寄って促(うなが)した。

それを機(しお)いに範宴は人々の群れを抜けて講堂の外へでた。

夜の大気が冷(ひ)んやりと山の威厳をかんじさせる。

「お待ち下さいませ」

性善坊は、松明(たいまつ)をともして、彼のあゆむ先へ立って明りをかざした。

松明は、焔(ほのお)よりも多く、墨のような煙を吐いてゆく。

明滅する山の道は浮きあがって眼に迫ってきたり、眼から消えて谷のように暗くなったりする。

「崕(がけ)道(みち)にかかります、なるべく、左の方へ寄っておあるきなさいませ」

そう注意しながら――「お師さま」と、性善坊はあらたまっていった。

「きょうのご講義は、わたくしがよそながら、聴いておりましても、胸のおどるほど、ありがたいお教えと存じましたが、そこらでささやく声のうちには、とかく嫉(ねた)みや、反感も多かったようでございます。やはり、あまり真情に仰っしゃるのは、かえって、ご一身のおためによくないのではないかと案じられてなりませんが」

「真情にいうて悪いとすると、自分の信念は語れぬことになる」

「郷(ごう)に入っては、郷にしたがえと申します。やはり叡山(えいざん)には叡山の伝統もあり、ここの法師たちの気風だの、学風だのというものもございますから……」

「それに順応せいというのか」

「ご気性には反(そむ)きましょうが」

「ここの人々の気にいるようなことを説いて、それをもって足れりとするくらいなら、範宴は何をか今日までこの苦しみをしようか。たとえ、嫉視(しっし)、迫害、排撃、あらゆるものがこの一身にあつまろうとも、範宴が講堂に立つからには御仏(みほとけ)を欺瞞(ぎまん)の衣(きぬ)につつむような業(わざ)はできぬ」

いつにないつよい語気であった。

性善坊は、その当然なことを知っているだけに、後のことばが出なかった。

右手の闇の下には、横川の流れが、どうどうと、闇の底に鳴っていた。

松明(たいまつ)の火が、時々、蛍(ほたる)みたいな粉になって谷へ飛んだ。

崕(がけ)道(みち)がきれると、ややひろい、平地(ひらち)へ出た。

一乗院までには、もう一つの峰をめぐらなければならない。

しかし、そこに立つと、遥かに京都の灯がちらちらとみえ、あさぎ色の星空がひらけて足もとはずっと明るくなった。

「待てっ!」

突然、草むらの中から、誰かそう呶鳴ったものがある。

範宴の眼にも、性善坊の眼にも、あきらかに黒い人影が五つ六つそこらから踊り出したのが見えた。

「誰だっ」

性善坊は、本能的に、範宴の身をかばった。

ばらばらとあつまってきた五、六人の法師たちは、たしかに昼間、講堂の聴衆の中にいた者にちがいなかった。

棒のような物を引っさげているのもあるし、剣をつかんでいるものもあった。

「異端者め!」

と一人がいうのである。

そして、いっせいに、

「若輩のくせにして、異説を唱える不届きな範宴は、この山にはおけぬ、山を下りるか、ここで、自分の学説は誤りであること、仏陀に誓うか、返答をせいっ」

と、威たけだかに、脅(おど)すのであった。