――どんなに憔悴しておられるだろう、どんなに絶望的な老後をかなしまれているだろう。
そう上人のすがたを想像していた月輪禅閤は、
「おう」
と、上人のほうから、常のとおりな声で、先にことばをかけられると、はっと、なにものかに衝(う)たれて、
「……おお」
同じように答えたまま、両手をつかえて、その手をしばらく上げることができなかった。
自分の至らなさを、禅閤はすぐ恥じた。
そういう上人であろうはずはなかったのに、自分の悲嘆から推して、そうあろうと、上人を凡夫のように想像していたことが恥かしくなってきたのである。
今度の兇変についても、
「なんと申しあげてよいやら」
と、禅閤がいいかけると、
「なにも仰せられな」
と上人は微笑すらふくんで、それに触れないのだった。
そして、相かわらず、上人の唇から流れる静かなことばは、法(のり)の話であった、弥陀光の信念につつまれた和やかな顔をもって説くところの人間のたましいの話であった。
「――かかる時に持ちくずれるような信仰では、なんの役にたちましょうぞ。こういう折こそ、ご修行のかいがのうてはならぬ、月輪どのはややおやつれに見ゆるが、さようなことでは、法然が都を去るにも心のこりでござりますすぞ」
これはどういう人だろうと、禅閤は今さらに上人を見直すのであった。
日ごろの病苦などはかえって膝の下へ組みしいてしまったような法然なのである。
しかし、どれほどこの事実が禅閤の信仰を強固にしたか知れなかった。
自分が救われると共に、久しぶりでここへ来て心が明るくなった。
――それはそれとして、眼の前にはすでに刻々といろいろ問題がさし迫っている。
遠流(おんる)の日はまだ決まらないが、それまでのわずかの日の間でも、禅閤は、上人の身をどこか安らかな所へおいて、心から名残を惜しみたいと考えてここへ来たのであった。
で――そのことについて、上人の内意を聞くと、官のほうさえおゆるしなればという答え。
その官のほうのことは、すっかり禅閤が諒解をとげてきてあるので、お案じには及ばぬ由を告げると上人も、
「では、お心に甘え申そう」
という。
翌る日――牛車(くるま)の支度をととのえて、禅閤はふたたび吉水へ出直した。
そして、上人の身を一時、阿弥陀ヶ峰のふもと蓮華王院の辰巳(たつみ)にあたる小松谷の草庵に移した。
もちろん蟄居の身のままであるから、ここにも、物具(もののぐ)を着けた警固はつく。
けれど、吉水の荒された禅房よりも、はるかにくつろぐことができるし、禅閤を初め月輪家の人々も、
「これぞお名残――」
と、真心こめて、上人の起き臥しの世話をすることができた。
そうして上人の身を荊棘(けいきょく)の門から抱え出すと、禅閤はまた、一方のわが聟(むこ)と、いとしい息女(むすめ)とが、事変以来どう暮らしているか――それも心がかりでならなかったことなので、
(――明日は)と思いながら、なにかのことに慌ただしく日ばかり暮れて行かれず、
(明日こそは、岡崎へ)と、また今日も心のうちで思うだけで、訪客だの、蟄居中の上人への心づかいだの、官へ対しての哀訴だの、さまざまな忙(せわ)しなさに暮れてしまうのであった。