『花が咲くいのち尽くして花が咲く』(中期)

この世の中には、多くの生きとし生けるものが存在しています。

そして、この世に生を受けているすべての生き物が、その生を終える瞬間まで、まさに「いのちを尽くして」生きています。

ですから、どんな生き物も、自ら「死にたい」と思ったりする生き物は一つもないといえます。

例えば、連日雨が降らず日照りが続いたとしても、だからといって「もう枯れてしまいたい」と思う草木はありません。

結果としては、残念ながら枯れてしまったとしても、最後の一瞬まで「枯れたい」と思うことなどないのです。

このように、すべての「いのち」の根底には、平等に「生き尽くす」ということがあります。

ただし、人間だけは例外です。

人間は、自分の人生が思い通りにならなかったり、現在の境遇が苦しくて絶え難いと感じたりすると「死にたい」と考えたり実際に死んだりすることがあります。

人間が他の生きものと決定的に違うのは、漠然とではあっても、自らが「死ぬ」ということを知っており、そのため「死にたい」とか「死にたくない」といったことを考えたり、自分の「生き方」についてあれこれ悩んだり苦しんだりするということです。

この世は「無常」です。

生まれたものは必ず死にますし、今、栄えているものも、やがていつか必ず滅びるときがきます。

とはいえ、これは自然の道理ですから、仏教徒であってもなくても、すべての人が素直に受け入れることができます。

すべてのものごとには、始めがあれば必ず終わりがあるのです。

ただし、その終わりが今まさにここにあるということを教えるのが、仏教の説く「無常の理(ことわり)」です。

本願寺第八世・蓮如上人は、お手紙(『御文章』・「白骨章」)の中で「私たち人間のいのちは、露のしずくのはかなさと同じように、今日とも明日とも知り得ないもので、たとえ朝には元気であっても、無常の風が吹けば、夕べには白骨となる身である(意訳)」と、教えておられます。

そうすると、私たちの人生はいったいどうあるべきなのでしょうか。

この世における人生の全体、始めから終わりまで、その一切が「まぼろしのようなものである」とすれば、人によっては「だったら、何をしても空しいのだから、今を勝手気ままに楽しく生きれば良いではないか」などと思ってしまうかもしれません。

けれども、蓮如上人が教えておられるのは、その全く逆であって、私たちのいのちはかないものだからこそ、人は今の生に生きがいを見出さなければならないということなのです。

では、なぜ私たちは勝手気ままに生きようとしてはならないのでしょうか。

それは、私たちは一人で生きることができないからです。

いうまでもなく、この世の中は私一人で成り立っている訳ではなく、多くの人びとによって支えられています。

そういった中にあって、勝手気ままに生きることは他に迷惑をかけるばかりで、たとえ自分は楽しくても他の人と喜びを共にすることができなければ、後に残るのは空しさだけです。

例えば、何か嬉しいことが身に起きたとしても、その喜びを語れる人がこの世の中に一人もいなかったとしたらどうでしょうか。

かえって、寂しくなるのではないでしょうか。

他人からすると、取るに足らないように些細な喜びであってたとしても、それを語れる人が複数いれば、喜びは語る度に倍加していくかもしれません。

また、つらいことや悲しいことがあっても、黙って聞いてくれる人がいるだけで、生きる勇気がわいてくることもあります。

花も単独で咲いているのではありません。

花を育み支える大地があり、太陽の光や水など自然の恩恵によって、いのちを輝かせるかのように美しく咲いています。

私たちも、決して一人きりで生きているのではありません。

周囲の人びととの縁の中で、支え支えられ生きています。

そういう、いのちの事実に心を寄せるところから、自らのいのちを精一杯生き尽くしていこうとするあり方が生まれてくるように思われます。