「春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里の来た 野にも来た。
花が咲く 花が咲く どこに咲く 山に咲く 里に咲く 野にも咲く。
鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く 山で鳴く 里で鳴く 野でも鳴く。」
この「春が来た」という曲は、どなたでも口ずさんだことのある懐かしい童謡です。
高野辰之作詞、岡野貞一作曲で、明治43年に発表された唱歌でもあり、2007年に日本の歌百選にも選ばれました。
よく「春が来た」「春になった」といいますが、それでは一体、春の実体とは何かと言われるとよくわかりません。
春には色も、形もありませんし、春を直接、見ることはできません。
それでは春は来なかったのかといえばそうではありません。
こんな話を聞きました。
一人の男が、春を見てみたいものだと思い、道で行き交う人にあたりかまわず、「春を見せてください」と言い、「春のありか」を尋ねました。
しかし、誰も満足に応えてはくれません。
そこで、男は旅に出て、幾重もの雲の下を探し求めましたが、結局、春を見つけることはできませんでした。
そして疲れ果てて家に帰りついた時、庭先に植えてある見慣れた梅の木に迎えられ、梅の梢(こずえ)を手にとってみると、白い花がかぐわしい薫(かお)りを放っていました。
探し求めた春は、遠い彼方ではなく、男の手の梅の枝に息づいていたのです。
春はすでに来て、梅を芽ぶかせ、白い花をほころばせ香りを放たせていました。
人は仏を求めて仏道の旅に出ます。
仏は我の外にあり、仏果は遠くにあって私が到着するのを待っていると。・・・。
だからこそ、人は修行に励み、功徳を積み、命がけの仏道修行にのぞむのです。
親鸞聖人の比叡山での20年間のご修行は、この為のご苦労でありました。
しかし、宗祖は望むべき仏果に到ることなく、いよいよ自力無効を知らされ、比叡山を降りられました。
そして生涯の師・法然聖人に出遇って知らされたことは、仏は自己の外に追い求める対象ではなく、既に自己の足下に来てくださっている事実でした。
それを、浄土真宗では他力回向といいます。
「花が咲く いのち尽くして 花が咲く」
厳しい冬の時期をくぐり抜け、陽気に誘われて咲く花の姿は、可憐で、心を慰めてくれます。
一輪の野花にかけがえのないいのちの輝きがあります。
しかし、そのいのちは、実にはかないものでもあります。
その花は、決して咲く場所を選ぶことはできません。
たとえば山奥の谷間に咲いた可憐な花は、誰に見られることもなく、ただ与えられた場所で、精一杯いのちを尽くして咲き、誰からも賞賛されることもなく、また、不平不満を言うこともなく、淡々といのちを生き抜いていきます。
民芸家の柳宗悦氏は、そうした姿を、
「花 見事に咲きぬ 誇りもせでやがて うつろいぬ つぶやきもせで」
と歌い、わが身をありようと重ね合わせ、吾もまたそうありたいものだと沈思黙考されたのかも知れません。
ある生徒が尋ねました「この世で一番尊いものはなんでしょうか」と。
すると先生は
「尊いものに一番、二番がありますか?針の先の塵ですら光っているではありませんか」
と答えたといいます。
人はものを見るときに、つい、勝ったの負けたの、価値が有るのないのと、分け隔てをして比較し、優劣をつけたがります。
しかし、いのちそのものは、みな光輝いているのです。
ただ、そのことに気づけない私がそこにいるだけです。
「他人と比べるところから不幸が始まる 花はあるがままに咲いて美しい」
との言葉もあります。
数年前の流行語に、「二番ではいけないのですか」という言葉がありました。
「世界一」は、相対比較の価値観です。
「天下一品」は、いのちそのものが輝く、相対比較を超えた価値観ともいえるのではないでしょうか。