どんな烈しい人間の悪感情に向っても、親鸞は親鸞の気の持ち方に、さざ波ほどの揺るぎもうけなかった。
澄んだ湖のように、彼の眸は穏やかなのである。
「托鉢に参ってござる」
こう彼がその面(おもて)のような静かなことばでいうと、
「なに、托鉢に」
と、年景の声は、よけいに荒々しく棘立って、
「ば、ばかなっ。ここはただの民家でない、かりそめにも、代官萩原年景の役宅と住居(すまい)のある所、流人僧の出入りなど相成らん」
「ご存じないか、出家には門がないことを。――権門も、富者の門も、貧者の門も、すべて僧には同じものでしかない」
「貴さま、この年景に、理窟をいいに来たのか」
「ちがいます、托鉢のためでござる。そして、わしが布施を受けると共に、おん身にも布施したいものがあって」
「乞食坊主から、なにを貰おうぞ、無礼者め」
「仰せられな、この親鸞の眼から見れば、おん身は気の毒な貧者でしかない」
「おれが、貧者だと」
「眼に見える物の富の小ささを、年景どの、ご存じないか。なんと、この北国の貧村と、痩せたる民の膏血(こうけつ)で作った第宅(ていたく)の見すぼらしさよ。京の朱雀、西洞院のあたりの官衙(かんが)や富豪の邸(やしき)ですら、われらの眼には、ただもののあわれを誘う人間の心やすめの砂上の楼閣としか映らぬものを。――いわんや北国貧土の小代官が奢り沙汰片腹いたいというほかはない」
「罪囚!」
年景は、大地を蹴って、怒った。
「おのれ、流人の身をもって、代官たるこの身を、罵ったな」
「あたりまえなことを申しあげたのです。今わからなければ、後になって分りましょう。――そういう折へ、無駄な説法、わしもやめにする。……だが用向きは果たしてもどらねばならぬ。年景どの、お身が養っていた山吹という女子、海辺から親鸞が連れて参った、どうぞ親鸞がたのみを聞き入れて下さるまいか」
「人を悪しざまに罵って、その上の頼み事、聞き入れる耳はない」
「では、多年、寵愛した女子が、死のうと生きようと、お身はかまわぬというか。親鸞ですらかなしいものを」
「よけいな世話をやくな」
「わしがやくのではない、御仏が世話をやかれるのじゃ。山吹は、わしが庵室へかくれて剃髪したいというが、親鸞は今、かくの通り、流人の身のうえ。――朝命に対して、憚(はばか)りあること。その願いは聞かれぬによって、山吹の縁者たちの住む土地――京へもどって、願いを達したがよいといい諭して連れてきたのじゃ。おん身の手をもって、どうぞ、山吹を元の京都へ返してやって欲しい。……どうじゃ、その頼みなら聞いてくださるであろうが」
「……置いて行けっ」
年景は、かんで吐き出すようにいった。
自分の側女が、彼の手によって届けられたことは、感謝するどころではなく、むしろ忌々しくて堪らなかった。
「頼みもせぬに、山吹を連れてきたか。連れてきたなら仕方がない、その女を置いて、疾(と)く立ち帰るがよかろう。物欲しげに、うろうろいたしておると、承知せぬぞ」
てれ隠しである。
年景はそういって、まだ騒いでいる家来たちへ、何か当りちらしながら、住居のうちへ姿を消した。