「仏教を通して、-他力と自力、アメリカとの比較から-」(中期)自力と他力のミックス

自力の社会=アメリカ、他力の社会=日本、それぞれに良いところと悪いところがあります。

物事はその真ん中、自力と他力の真ん中のところでお互いの良いところ、あるいは自分たちにふさわしい新しい考え方、方法を身につけていかなければならないのではないかと思います。

アメリカは、能力のある人や健康な人にはいろいろなチャンスがある国だと言いました。

でも現実には、人間は能力においても身体の丈夫さ健康においても、あるいは容貌などにおいても平等ではありません。

私は、生まれつきが4割で努力が6割と考えます。

考える習慣があるか、しっかり話をする習慣があるか、きちんと挨拶をする習慣があるかなど、後天的に身につけるものの影響の方が大きいのです。

だからこそ教育に意義があるのだと思っています。

親が子どもに残せるのは、お金などの財産よりもどういう習慣を子どもにつけさせたかどうか、そういうことのほうが大事です。

親の顔が見たいというほど行儀の悪い子や口の効き方が下手な子もいますが、それは才能よりも習慣ですから教育によってカバーできます。

親から与えられたものにも格差がありますが、その格差を本人の努力でカバーしていく。

健康や容姿についてもそうです。

よく女の顔は請求書、男の顔は履歴書と言われますが、女の顔も履歴書だと思います。

どういう表情をしながら生きてきたか、それがじわっと出てくるのです。

自力と他力、ここもやはりオール・オア・ナッシングではなくて、人間の力ではどうしても変えられない部分と、努力で変えられる部分のミックスなのではないかと思います。

今日のような長寿社会においては、個人の努力によって人生のステージを変えていくことのできる割合が大きくなったということです。

置かれた場所で努力を続けるためには、どういう心の持ち方が必要でしょうか。

私は子どもや学生たちに「他人と比べないで自分の過去と比べなさい」と言っています。

自分が去年の自分よりは少しは進歩しているかを省みることが肝要です。

他人と比べないで、自分自身があるべき姿に近づいたかどうかによって努力の成果を測るということです。

「どれだけお金を儲けたか」とか「どれだけの肩書きを手に入れたか」そういうことではなしに、自分がどれだけ良いことをできる人間になったか、どれだけ自分が他人に対してやさしい気持ちを持つようになったかと、その変化、進歩を中心に考えていくべきです。

努力しなければ進歩はありません。

人間は放っておけばどんどん悪くなる。

怠けたいのが人間です。

どんどん不機嫌になっていきます。

フランスの哲学者アランは「意識して、努力して上機嫌に振るまえ。しあわせだから微笑むのではない。微笑むからしあわせになるのだ」と言っています。

形をつくれということです。

意識して自分は上機嫌になるべきで、声を出して笑うのが一番良く、免疫力も高まるようです。

色々な物事というのは、それをどう受け止めるか、どう解釈するかによって左右されます。

そういう点において仏教は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教など一神教の神さまに比べてとてもやさしく温かで寛容な感じがします。

宗教の中には、「信じれば必ずしあわせになります、病気が治ります、金持ちになります、頭がよくなります」と現世利益(げんぜりやく)を宣伝するものがありますが、私は、すぐに役立つようなご利益ばかりを謳(うた)う宗教には疑念を抱きます。

現世利益よりむしろ心の拠り所を与えてくれる宗教が必要であると思っています。

本当の宗教、これからの私たちが必要としているものは、試練を与えてくださり、そしてその試練を乗り越える力を与えてくださるものだと思います。