「露の団姫の極楽寄席」(前期)落語家としてはプロですが、僧侶はアマ(尼)です

ご講師:露の団姫 さん(落語家・僧侶)

落語という古典芸能が生まれたのは、今から300年ほど前のことです。

始めたのはお坊さんで、道行く人々がなかなか話を聞いてくれなかったので、おもしろおかしく仏教の話にオチをつけて話しはじめたのが落語になっていったのです。

ですから小噺にもよくお坊さんが登場します。

「向こうを行きはるの、あれはお坊さんと違いますか」

「そう(僧)」

「向こうを行かれる2人連れ、あれはお坊さんと違いますか」

「そうそう(僧僧)」

こうしてだんだん一体感が生まれるのです。

「おい、鼠捕まえたぜ」

「えらい小さい鼠だな」

「いや大きいがな」

小さいがな、大きいがな言ってるうちに真中で鼠が「チュー(中)」と。

まあこういうのが古典の小噺なのです。

私は落語家でありながら天台宗の僧侶でもあります。

ただ落語家としてはプロなのですが、お坊さんとしてはアマ(尼)なのです。

兵庫県の尼崎市に住んでいるので、尼(崎市)の尼さんと覚えていただけたらうれしいです。

こういった変わった生き方をしておりますと、毎日毎日いろんな場所でいろんな人に会います。

なかでもびっくりしますのが元気なお年寄りの方々で、ことさら女性です。

この間も近所のスイミングスクールに行きましたところ、隣のレーンに85歳のおばあちゃんが泳ぎに来ておられました。

このおばあちゃんは1日に1キロ泳いでおられるとのことで、私が「いやあ、おばあちゃん、すごいですね、85歳で1日1キロですか。ところで、おばあちゃん、どうしてスイミングスクールに通っておられるのですか」って聞いたら「三途の川を泳ぐため」と。

また、これを聞いていた息子の嫁がコーチに駆け寄り「先生、ターンだけは教えないでください」と言われたのです。

びっくりしました。

本日の私のお話は我々人間が死んだあと、三途の川を渡ったあと、いったいどんな場所に行くのかという話で一席お付き合いいただきたいと思います。

 

《落語「地獄八景亡者戯(じごくはっけいもうじゃのたわむれ)》

ここにございましたある男、よそから鯖を一匹もらいました。

これを2枚におろして、骨身の方を冷蔵庫にしまい、片身のほうをきれいに食べましたところ、どうやらこれにあたったらしく、ふうっと意識を失いまして、次に気がついたときは何やら空々寂々(くうくうじゃくじゃく)とした暗いところで、前を行くもの後ろを行くものみな額に三角頭巾をつけて首から頭陀袋(ずだぶくろ)、手甲をつけ杖をつき・・・(あらすじ)鯖の刺身を食べて食当たりで死んだ喜六が、冥途への旅路で伊勢屋の隠居と再会するところから始まり、三途の川、賽の河原(さいのかわら)、六道の辻(冥途辻)で多くの登場人物と出会い、世相を反映した様々な事象に巻き込まれながら、閻魔大王庁に辿りつく。

そこで、閻魔大王から地獄行きの裁定を下された曲者の男4人<医者、山伏(やまぶし)、軽業師(かるわざし)、歯抜き師)>が散々悪戯(いたずら)をして鬼を攪乱するので、鬼が呑み込んでしまう。

すると今度は鬼の腹の中で悪さをし、ついに腹を切って外へ出るが、腹を切られて痛い痛いと泣く鬼の腹を罪滅ぼしに医者が縫合する。

これを見た閻魔大王は感心して地獄行きを改め、極楽行きへ変更する。

・・・「そのほうたちの功徳をもっておまえたち4人とも極楽へ送ってやるぞ、縫物で功徳をつかんだ亡者は昔から極楽行きと決まっておるのじゃ、裁縫(西方)浄土というやつじゃ」

 

落語家になりたいと思いましたのが今から15年ほど前、高校1年生のときでした。

私の両親が非常に落語好きでしたので、私も将来落語をやりたいな、落語家になりたいなと思うようになったのです。

一方、僧侶になりたいと思いましたのも同じ高校1年生のときです。

実家がお寺であるとか、そういう訳ではなく、親はサラリーマンの普通の家庭でした。

私は明るい性格の子どもでしたが、当時一つだけものすごく心配なことがありました。

それは「人間というのは死んだらいったいどこへ行くのか」ということでした。

私が3歳のとき、私の祖父が亡くなりまして、やはり子ども心に不思議でした。

それでおばあちゃんに「おじいちゃん、死んでしもうた、これからどこへ行くの」と聞いたのです。

おばあちゃんは「おじいちゃんか、おじいちゃんは死んだからな、今から焼きに行くんや」って言ったのです。

私はこれがとてもショックで、人間が亡くなるといったいどんな場所に行くのかがとても気になったのです。

中学生になると社会科の授業で世の中に宗教があるとわかり、そこに私の求めていることがあるのではないかと思いました。

高校生になって宗教の勉強をしようと思い、アルバイトをして宗教の本を買いました。

一番最初に買ったのはキリスト教の聖書で、次に買ったのがイスラム教のコーランでした。

ちょうどアメリカでテロ事件があり、イスラム教は怖いとか過激だとか誤解されていましたが、実は「イスラム」ということば自体に平和という意味があるそうで、とても平和的な宗教なのです。

イスラム教やキリスト教の勉強をしたり、また神道、仏教などいろんな宗教を勉強するようになり、どの宗教もすばらしいなと思ったのですが、なかでも自分自身の心にぴたっときたのが仏教の教えでした。

仏教がどんどん好きになり、信仰心を持つようになったのです。