2020年6月法話 『一日の大切さは年齢を問わない』(中期)

数年前、ベストセラーになった『君の膵臓を食べたい』という小説を原作として実写映画化された同名の映画の中に、とても印象深いやり取りの場面がいくつもありました。その中の1つが、膵臓の病気で余命1年足らずの主人公・桜良と、その秘密を知った同級生・春樹との図書館での会話です。

春樹:残り少ない命をこんなことに使ってていいの。
桜良:じゃあ、何に使うのよ。
春樹:あるじゃん。初恋の人に会いに行くとか、海外でヒッチハイクして最後の場所を決めるとか。
桜良:そっちこそ、やりたいことしなくていいの。もしかしたら明日突然、君が死ぬかもしれないのに。事故とかさ…。ほら、最近この辺りで通り魔事件もあるし…。私も君も、一日の価値は一緒だよ。

最後に、桜良がさりげなく放った「私も君も、一日の価値は一緒だよ」の一言を聞いた時、「確かに…」と頷かずにはおれませんでした。一般に、余命を宣告された人を前にすると、私たちは自分の方が長生きをするものだと漠然と思っていたりするものです。けれども、決してそんなことはないのです。物語の主人公・桜良が口にしているように、どちらが先に逝くかどうかは、実のところ誰にも分からないのです。

なぜなら、私たちのいのちは、誰にも代わってもらうことはできませんし、やり直すこともできません。しかも、生まれた以上必ず死ななければならないのですが、それがいつということも分からないからです。そうであるにもかかわらず、私たちは、日頃「いったい自分はいつまで生きられるのだろうか」とか、「死ぬときは、どんなふうに死んで行くんだろう」といったことについて、「深く考えたりしていますか」と問われても、さしあたって深刻な病とかを患っていたりしなければ、特に考えることなどありません。

自分に対してもそうですが、それは身近な家族に対しても同じだと思います。先日、父が亡くなりました。父は高齢(満95歳)でしたが、寝込んだりするようなこともなく、家で普通に生活をしていました。ところが、昨年の12月初旬、夜中に何度もトイレに行くことが煩わしかったためか、日中の水分補給を控えていたことから脱水症状に陥り、救急車で医療センターに緊急搬送され、そのまま入院することになりました。当初は、数日で退院するものだと思っていたのですが、そのまま歩けなくなり褥瘡を患うようになりました。また、時折高熱を発したりすることもありましたが、さしあたっていのちの危険を感じるようなことはありませんでした。

やがて、年末には体調も改善して民間の病院に移り、歩けるまでには回復しなかったものの褥瘡の傷も癒えて、3月初旬には退院して老健施設に移りました。さらに、3月中旬には、以前から父の希望で申請をしていた介護付老人ホームに入所しました。入所して数日は家族のみ面会することができたのですが、鹿児島県内でも新型コロナウイルスの感染者が出たことから、施設内に立ち入ることができなくなってしまいました。けれども、週に一回のペースで施設の職員の方から父の様子を伝える電話連絡があったり、5月の連休中に父用の携帯電話を届けたこともあり、時折直接声を聞いたりすることもできていました。

そんな中、父が入所してからちょうど2か月ほどになる5月19日(火)の午前3時前、電話の着信音に起こされました。スマホを手にすると、父がお世話になっている施設からでした。「父に何かあったのでは…」という不安がよぎったものの、日曜日の午前中、施設に父への届け物をした際に施設の職員の方から「元気で食欲もある」と聞いていたので、まさかと思いつつ「父に何かありましたか」と尋ねると、「お父様が息をしておられません」とのことでした。

 

一瞬、思考停止状態になったのですが、耳元に聞こえてきた「今からこちらに来ていただけませんか」という声に我に帰り、急いで施設に向かいました。着いて父の部屋に通されると、まるで眠っているかのようでした。職員の方の話によれば、「普通に会話をしておられたのですが、ふと気がつくともう息をしておられませんでした」とのことで、もしかすると父も眠りについたただけで、自分が死んでしまったことに気付いていないのではないかというような穏やかな顔をしていました。間もなく施設の掛かりつけのお医者さんが来られ、死亡が確認されました。死因蘭には「老衰」と記載されていました。

まさに、その生を完全に燃焼し尽くして浄土に往ってしまったのでした。もし何らかの病気を患い、病院で亡くなったのであれば、「あと一週間ほどですよ」とか、「あと、数日もつかどうか…」といった言葉を医師から告げられ、心の準備のようなものができたのかもしれませんが、あまりにも突然のことに呆然とする一方、自分でも不思議なくらい通夜・葬儀に向けての段取りを粛々と始めていました。

そして、通夜の法話を生前父が70年来懇意にしていた方に依頼し終えた後、ようやく父が亡くなったことを実感し、その途端こみあげる感情のままに一人本堂で泣いていました。12月に入院してから、2月の下旬までは家族のみの面会は認められていたので、毎晩父に会いに行っていろいろなことを語り合っていました。ところが、3月から学校への休校要請が出されたことを受けて、家族への面会も禁じられてしまいました。3月中旬に老人ホームに移った時は、まだ県内での発症者がいなかったこともあり、指定された時間帯に1時間だけは面会ができていたのですが、それも県内での発症者が出たことで禁止になりました。そのため、最後に生前の父に会えたのは入所してからの数日間だけでした。また、携帯電話で話したのも数回のみでした。その時は、父はいつも「元気だ」と話していました。

なぜ、もっと早く携帯電話を届けなかったのか。なぜ、もっと頻繁に電話をかけなかったのか…。思い返せば、もっともっと何かできたのではないかと後悔することしきりです。
冒頭紹介した映画の中で、桜良は一時退院をして春樹に会いに向かう途中、通り魔事件に巻き込まれて亡くなってしまうのですが、そのことについて春樹は次のように語っています。

甘えていたんだ
残りわずかな余命を
彼女が全うできるものだと思い込んでいたんだ
バカだった
明日どうなるかなんて誰にもわからない
だから「今この一日をこの瞬間を大切にしなきゃいけない」って
そう彼女に教わったのに…

明日どうなるかなんて誰にもわからない。だから「今この一日をこの瞬間を大切にしなきゃいけない」って、そう彼女に教わったのに、そのことに気付かないでいた自分に、彼女は自らのいのちの終わる姿をもって重ねて教えてくれたということでしょうか。

私はこの映画を、映画館ではなく公開から10か月ほど過ぎてから放映されたテレビ番組を録画して見ました。録画したのは土曜日の夜だったのですが、その翌日の日曜日の午後、そしてその夜の2回続けて見ました。また、それからの1週間は、毎晩続けて見続けました。同じ映画を1日に2回見たのも初めてなら、翌日からの1週間毎晩見たのも初めてでした。見る際は、桜良の側から見たり、春樹の側から見たり…、そしてその都度いろいろなことを考えさせられました。それは、紹介した以外にも物語の随所に印象深い言葉があったからだと思います。

私は、この映画を通して「一日の大切さ」を何度も何度も教えられ、それ故に父の入院中は毎晩のように会いに行っていたのだと思います。けれども、退院して老人ホームに移ってからは、「食欲もあり元気ですよ」との言葉を聞くうちに、いつか「その日」が来ることは漠然と思いながら、いつの間にかそれは、期待感を込めてまだしばらく先のこととして、「一日の大切さ」を忘れていたような気がしました。そんな私に、父は最後に人生の無常なることを身をもって教えてくれたように思います。

父は高齢でしたが、改めて「一日の大切さは年齢を問わない」ことを、自らのいのちの終わりをもって教えてくれたのだと感謝することです。