「疫癘の年の瀬に」

今年は、年明けから中国の武漢市に端を発する新型コロナウイルスの感染が世界中に拡大し、各都市ではロックダウンが、また日本でも緊急事態宣言が発令されたりしました。それらの対策の効果で、一時期は沈静化の気配があったものの、その後、人の行き来が活性化すると、第二波、第三波と言われるような事態が発生しています。

日本は諸外国に比べると感染者数・死亡者者は比較的少ないものの、これから空気の乾燥・気温の低下など、感染症の流行しやすい時期になっていくため、さらなる感染の拡大が危惧されています。

よく知られているように、感染症の流行は今回だけのことではなく、歴史を繙くと何度も発生しています。室町時代の本願寺第八世門主・蓮如上人(1415~1499)の時代にも感染症の流行があったようで、延徳四年(1492年)六月に書かれた『御文章』に「当時このごろ、ことのほかに疫癘(悪性の流行病、疫病)とてひと死去す」とあります。興味深いのは、その後に続けて書かれている事柄です。

これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。

意訳すると「人は感染症が流行したから死ぬのではありません。人が死ぬ原因は生まれたということにあるのであって、いつか死ぬということは生まれた時から決まっていることなのです。だから、感染症によって亡くなったからといって、ことさら驚くことはないのです。けれども、今のように感染症が流行している時期に罹患して亡くなると、あたかも感染症が原因で亡くなったと誰もが思ってしまうものです。これは確かに、その通りかもしれません」ということになります。

記録によれば、この年は感染症の流行で多くの人が亡くなったため、延徳四年は途中で明応元年に年号がきり換えられています。明治以降は、一世一元ということが決められているので、「令和」から年号が変わることはないのですが、それ以前は次の三つを理由に改元が行われていました。

  1. 君主の交代による代始改元
  2. 吉事を理由とする祥瑞改元
  3. 凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元

近年は、甚大な自然災害が発生することが多いので、もし一世一元というルールがなければ、毎年のように改元があったかもしれない気がします。

仏教は、原因と結果の関係性をあるがままに見ていこうとする教えなので、死ぬのは生まれたからだと説きます。一般に、人は病気や事故・災害などによって死ぬのだととらえがちですが、死因はただ一つ、生まれたということにあるのであって、私たちが「死因」だと思っている事柄はすべて「縁(条件)」だと教えます。そして、その縁は無数にあることから、「死の無量にして」という言葉で、どのような条件で死んでいくのか予測できないことを語りかけています。

感染症の流行は、とても気にかかることですが、感染症が流行してもしなくても、既に生まれるという原因がある以上、私たちはいつか死ななければなりません。そうすると、感染症の流行の有無にかかわらず、必ず死ななければならないのですから、そういう人生にあって、「本当に私が私を生きた」と言えるような生き方を見出せなければ、最後は「空しかった」の一言に全てが収斂されてしまうのだと思います。

それは、どれほど懸命に生きたとしても、「どうして最後は死んでしまうのに、そんなに頑張っているのですか」と問われて、答えが出せないままに砕け散っていくようなあり方にほかなりません。これを仏教では「空過」というのですが、だからこそ親鸞聖人は「本願力(阿弥陀如来の教え)に遇うことができれば、決してその人生が空しく終わることはない」と教えていてくださいます。

なぜなら、その教えに遇う者は、阿弥陀仏の尊い願いのはたらきによって、せその生が終わると同時に「成仏」という人生最高の形で、そのいのちが成就していくからです。

目の前の現象面に惑わされることの多い私たちですが、このような混迷の時代を生きているからこそ、真実の教えに耳を傾けたいと思うことです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。