「地獄」という言葉は、仏教徒であるかいなかということに関わらず、私たち日本人の生活の中にとけこんできた言葉です。この言葉が、私たち日本人の中に意識されるようになったのは、おそらく源信僧都(942年―1017年)が『往生要集』を著されてからのようです。
地獄については、江戸時代に実体的に説かれてきたこともあり、その反動からか、科学的な物の見方や考え方を基本とする明治以降の教育が浸透してくると、荒唐無稽で非科学的な事柄とし無視されるようになりました。
ところが、今日、私たちの生活が未来への希望を失いはじめると、現にある自分の事実を見つめ、掘り下げていくということが求められるようになり、そこに地獄という言葉が、私たちの生きる現実を端的に言い当てた言葉としてよみがえってきているような感があります。
地獄という言葉の意味については、唐の時代に道世という人がいろいろな経典の言葉を集めて編纂した『諸経要集』という書物があり、その中で詳しく説明されています。『諸経要集』によると、地獄の「地」とは「底なり、いわく下底」、つまり私たちのいのちの最も低いところで、存在のもっとも根底だと示されています。「獄」とは、「自在を得ず」ということだと述べられています。それはどのよう意味かというと、この獄という言葉には「拘局」という意味があります。「拘」とは、「拘置する」ということで、引き止めたり、縛りつけたりすることです。また、「局」というのは、一つの状態に押し込められることをいいます。
このようなことから、自由気ままに未来に夢を見たりしている私たちの心を、いちばん深いところから縛りつけている、私を現にこのようなあり方に縛りつけている事実を物語る言葉が、まさに「地獄」という言葉の意味だといえるようです。
一般には、どこかに地獄という場所があるかのように思われているのですが、そうではありません。源信僧都が『往生要集』を著される際に依りどころとされた『正法念処経』の中に「汝は地獄の縛を畏るるも、これはこれ、汝の舎宅なり」という言葉が出てきます。この「舎宅」というのは、私が具体的に生きていく場のことです。したがって、地獄というのは、どこか未来の彼方にある世界ではなく、私が現に生きているこの場にあるといわれるのです。
つまり、地獄というのはどこか遠くにあるということではなく、私の本当の相を根底から掘り起こしていくところに出会うものとして使われている言葉なのだと言えます。また、既に述べたように、地獄には「拘局」、そこに縛りつけられるという意味があることから、逃れることのできない現実世界というものの根底に、このいのちにおいてもっている「罪」というものを踏まえて語られているということが知られます。
それはどのようなことかというと、仏教においては原因と結果の関係をあるがままに見ていくことが原則となるので、地獄が結果となるのであれば、当然必ずその原因となる行為があるということになります。その原因となる行為のこと仏教では「業」といい、地獄に堕する因を「罪業」ともいいます。
また、経典には、その犯した罪によって堕ちる地獄が説かれています。具体的には、殺生の罪を犯したものは等活地獄、殺生と盗み(偸盗)の罪を犯したものは黒縄地獄、殺生・偸盗に加えて邪淫の罪を犯したものは衆合地獄、殺生・偸盗・邪淫に飲酒の罪を犯したものは叫喚地獄です。
最初の「等活」というのは、「等しきすがたに活きかえる」ということです。どのようなことかというと、等活地獄では、獄卒が罪人を頭から足の先まで、その形をとどめなくなるまで切り刻んでいきます。もちろん、罪人は死んでしまうのですが、獄卒が「活、活」と叫ぶと一陣の風が吹いてきて、罪人はまたもとと等しいすがたに生き返ります。ところが、生き返ったその罪人は、また同じように獄卒によって頭の先から切り刻まれていきます。そして、それが繰り返し行われ、いつまでも終わるということがないのです。「その罪、未だおわらざるが故に、死せざらしむ」と説かれているのですが、それは「死んでも終わらない、帳消しにならない」ということを表しています。
一般に、私たちは生きていく中で、自分一人では抱えきれないような苦しみや悲しみ、あるいは辛いことなどに直面すると、その事実から逃げ出したくなるあまり、ふと「死にたい」と思うことがあったりします。それは、どんなに苦しいことであっても、心の奥底に「死ねば終わるのだ」という思いがあるからです。
その「死ねば終わる」という、私たちの最後の夢が打ち砕かれるのが、まさにこの「等活」です。なぜなら、何度死んでも、活き返ってしまうからです。つまり、死んでも決して帳消しにはならないものを、私のいのちの根底に感じ取らせようとしているのです。
このような意味で、地獄というのは、これまで私が思いもしなかったような、罪業への自覚を促す世界だといえます。それは、死ねばすべてが終わるという安易な考えを木っ端微塵に打ち砕き、死んでも帳消しにならないものを自らの命の中に感じ取らせようとしているということです。したがって、「等活」ということは、ただ殺生という行為にだけ限定されることなく、私の罪業の本質を物語る言葉として説かれています。
ところで、ここで一つの疑問がわいてきます。それは、「終わりがない」ということであれば、「等活」ではなく「不終」という言葉でも良いのではないかということです。にもかかわらず、「等活」という言葉が用いられているのは、どうしてなのでしょうか。そけは、「等活」とは「常に新た」ということだからです。私たちは、それがずっと続いていくと、「慣れる」ということがあったりします。けれども「常に新た」ということになると、決して慣れるというわけにはいきません。つまり、常に新たに自身の罪業というものを思い知らされ続けていくということを、この言葉によって表わされているのです。
地獄が「私が現に生きているこの場にある」と説かれる一方、いわゆる死んでから赴く世界として説かれてきたのは、実は「死んでも終わらない」という、死をもってしても帳消しになることはないとう意味をそのような形で表現してきたのだと言えます。
仏教でいう「智慧」とは、それが自身にとって不都合なことであっても、その事実を事実としてどこまでも受け止めていく勇気を表します。一方、「愚癡」というのは、それが事実であるにもかかわらず、きちんと受け止めることができず、しかも自らの責任を他に転嫁していくあり方のことです。このことを踏まえると、智慧の相は謙虚さとして表れると言えます。
思えば、地獄という言葉が私たちの生活の意識の中に生きてはたらいていた時にあった謙虚さは、その語りかけに耳を傾けることなく、自分の理性や知性を尺度にして、地獄を荒唐無稽なこととして切り捨てることによって失われてしまったのではないでしょうか。それが、私たち人間の傲慢さとして、いろいろな問題を引き起こしているように感じられます。
仏教が地獄の経説を通して明らかにしてきたのは、人間としての謙虚さであり、聴くものの心に人間として謙虚さを開く役割を果たしてきたのだといえます。それは、人間に人間としての謙虚さを開くものこそ、地獄の経説だということです。
コロナ禍の不安が世界を覆うようによってから既に一年余りが経過しました。依然として先行きの見えない状況に、人々は不安や焦燥にかられ、そのことが感染者へのいわれなき誹謗中傷を引き起こしたり、未来への希望を失わせたりしているようです。また、そのことが、人々に現にある自分の事実を見つめ、掘り下げていくことへの関心を呼び起こしているようです。
したがって、地獄の経説とは、現にある自分の事実を見つめ、掘り下げていくところに頷かれるものであることを踏まえると、人々がそのようなことに関心を寄せるようになった今の時代こそ、改めて説いていく意義あるのではないかと考えているところです。