私は、高校から10年ほど鹿児島の実家を離れ、アパートで一人暮らしをしていました。
今ふと思うのは、あの10年間は実家に支えられていた10年間だったなということです。
当時、実家には、父・母・祖母・犬がいて、電話をかければ、みんなに受話器が回って、元気にしているの?と心配してくれました。
毎月、実家から食料をたくさん詰めた段ボールも届きました。
そのダンボールには必ず、「いつでも帰っておいでね」という母の一筆箋が入っていました。
遠く離れた実家のあたたかな支えがあって、一人暮らしをしていたのだ。
と少し歳を重ねた今、しみじみ思います。
ひょっとしたら、遠く離れていると感じてたのは私だけで、家族はいつもそばにいたのかもしれません。
実家のない一人暮らしと、実家のある一人暮らしは大きな違いがあるように思います。
生きることも、アパートの一人暮らしのようだと聞いたことがあります。
孤独の寂しさを感じることも多く、いつかこの部屋を出ていく(命終える)時が必ずくるということを例えているのかもしれません。
“あなたの命には実家が必要だ”と、阿弥陀仏という仏さまが用意してくださったのがお浄土です。
お浄土には、阿弥陀仏がいらっしゃり、先立っていかれた懐かしい方々がいらっしゃり、清らかな空間が広がっているといいます。
浄土真宗をひらかれた親鸞聖人は、「顕浄土真実教行証文類」というお書物のなかで、お浄土のことを無量光明土と示されました。
光は、はたらきをあらわす言葉ですから、親鸞聖人は、お浄土は命終わってから初めて用事がある場所ではなく、今この瞬間も私たちを包み込み、支え、はたらいているのだとお示しくださいました。
浄土が遠く離れていると思うのは私のほうで、実はもうここに届いています。
お浄土がどこにあるかという問いに、仏説阿弥陀経には「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。」と、とても遠いとあり、仏説観無量寿経には「阿弥陀仏、此を去ること遠からず」と、まったく遠くないと言われるのは、そういうことと私は味わっています。
この命は、いつ、どのような形で終わるかわかりません。
実家のようなお浄土だから、力なくして命終わる時、格好つけずにそのまま帰っていけるのです。