面白いことに、他力本願とか阿弥陀仏の救いは、
「何もしなくていい」
「何もしなくてもあなたを救う」
という教えです。
これを
『無条件の救い』
とも呼びますが、私たちには何もいらないと言われているのです。
「何もいらない」
と言われるのですから、何かをする必要はないのです。
極端な言い方をすると、遊んでいても救ってもらえるということです。
けれども
「何しなくても救う」
と言われて、そのまま遊ぶことの出来る人は、元気で幸せな人であって、遊んでいても何も苦労のない人だといえます。
ところが、そのような人がある日、自分は必ず死に至るというような重い病気に罹るといった、とんでもない不幸な状態に陥ったとします。
そうしますと、
「無条件で救ってもらえるのですね。
ともて素晴らしいことです」
というような心はどこかに吹き飛んでしまいます。
そして、必死になって神さまとか仏さまに助けを求め、
「救ってください」
と祈ることになります。
無条件の救いを聞いているのであれば、このいちばん悲惨に時にこそ、
「ああ既に、自分は救われている」
と喜んでいればいいはずなのです。
しかしながら、そのような心は絶対に起りません。
なぜなら、自分の今までの楽しみが消え去って、苦悩のどん底に落ち込んでしまうからです。
苦悩のどん底に落ち込んだ者は、平気で楽しく遊んでいることなど出来ません。
そのときこそ、必死になって、あらゆる手段を使って、まさに死にもの狂いになって何かにすがりつこうとするのです。
これが、楽しく遊んでいる人の姿です。
この人にとっては、ただ空しくしがみついて、やがて死んでしまうしかないのです。
けれどもその時に
「何もいらない。
あなたを救っている」
という教えに既に出遇っている人には、そのような祈りは不要です。
阿弥陀仏の本願力、他力とは、信じる者を救うという教えです。
そうであれば、信じなければ救われないということになります。
そこで、阿弥陀仏を信じるとは、どのようなことなのかということが問題になります。
そうなりますと、実は浄土真宗の教えは、何もしなくてもよいという教えではありえなくなります。
私たちの本質は愚かな凡夫であって、自力であれこれはからうしか能がありません。
そのような自力で迷いに満ちた心しか持ち合わせていない者が、どれほど必死になって阿弥陀仏を拝んだところで、さらに迷いを重ねるばかりです。
したがって、そのような者が、そのまま救われることはありません。
だからこそ、なぜ自分は阿弥陀仏に手を合わせているのか、なぜ念仏なのか、なぜ浄土なのか、このような問いを先に真剣に持たなければ、自分にとっての宗教的行為は、結局、何の意味も持ち得ないことになります。
自分の行為が自力とか他力とか、祈る必要があるのかないのか、そのような人間のはからいの心は、とりあえず全部捨ててしまえばよいのです。
所詮、私たちは迷い満ちた心しか持ち合わせていないからです。
そうであれば、そのような心のままでよいのだといえます。