「教行信証」の構造12月(後期)

釈尊は究極の法に出遇って仏になられたのですが、この仏になられたということは、いわば完全な智慧と完全な慈悲の法が釈尊の心に開かれたことを意味します。

つまり、究極の法の性格とは、一切をその究極に至らしめる功徳を有しますから、無限の智慧と無限の慈悲になるのです。

それをインドの言葉で表現すると

「アミタ」

となります。

ですから、釈尊は

「アミタ」

という究極の法に出遇って仏になられたのだといえるのです。

そうしますと、釈尊が仏陀として目覚められたということは、この完全な智慧と慈悲の法、

「アミタ」

の本質を人々に説かれたということになります。

これは宇宙の根源の原理と考えてよいのですが、この

「アミタ」

のことを説いている経典が

「阿弥陀仏の教え」

です。

では、そこには何が説かれているのかというと、一切を救う法の原理と、その法に救われる個々の衆生の原理だといえます。

この経典を『無量寿経』と呼ぶのですが、ここではまず、阿弥陀仏という仏が、無限の智慧と無限の慈悲を持った仏であることが明らかにされます。

したがって、阿弥陀仏とは、法の究極の姿であり、一切の根源、真如そのものということになります。

そしてこの法の根源は、自然の道理として、一切の衆生を真如に至らしめようとしています。

この真如の願意、願いであり働きを、インドの言葉で

「ナム」

といいます。

つまり、阿弥陀仏が一切の衆生のために

「南無」

するということです。

このように、阿弥陀仏が一切の衆生のために南無することを説いているのが、『無量寿経』の教えの一つの中心で、これが本願の内実です。

これは、救いの法としての阿弥陀仏の側からの原理なのですが、今度は救われる一切の衆生の側からいいますと、救われる原理は、阿弥陀仏のこの南無に対して、自分自身が自己の全体で、ただそれに応えるということになります。

応えるとは、自らがその法に対して南無することに他なりません。

私から阿弥陀仏に対して

「南無」

するのです。

これが『無量寿経』の今一つの中心思想で、願成就文に説かれる釈尊の教えになります。

阿弥陀仏が私たちに

「南無」

する。

それに対して、私たちは阿弥陀仏に

「南無」

するのです。

ところで、この二つの

「南無」

の内容は、根本的に異なっているといわなければなりません。

阿弥陀仏が私たちに

「南無」

するということは、救いの働きです。

一切の衆生を救うという働き、これが阿弥陀仏の

「南無」

であって、この

「南無」

を親鸞聖人は大行・他力と呼ばれたのです。

そしてこの法の真理が、誓願一仏乗といわれるのです。

「行巻」

には、この阿弥陀仏の救いの法が説かれています。

そして、阿弥陀仏の

「南無」

に対して、私たちが阿弥陀仏に

「南無」

していくことを、親鸞聖人は

「信心」

と呼んでおられるのですが、これが

「信巻」

の根本問題になります。

ところで、阿弥陀仏の

「南無」

に対して、自分自身が、真の意味で

「南無」

することができない心が

「疑情」

です。

この心は

「化身土巻」

で問題にしておられます。

そして、自分が

「南無」

する時、そこに証果が開かれることになるのでずが、その証の世界が

「証巻」

で述べられます。

また、阿弥陀仏の究極の法についての内実が

「真仏土巻」

で説かれていると言えます。

以上が、『教行信証』の構造ということになります。