「お盆」は、本来は「盂蘭盆会」といい、もともとは古代インドの言語であるサンスクリット語の
「ウランバナ」の音写語で、「倒懸(さかさにかかる)」と意訳されています。
また、お盆の行事は『盂蘭盆経』(西晋、竺法護訳)に説かれるお釈迦さまの高弟・目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への「供養」の伝説によると伝えられています。
さて、この「供養」ということを考える場合、
「寺院は先祖供養しかしない」とか、
「法事・葬儀しかしない」と、社会性を欠く面があるという点について批判をされることがあります。
これを総称した非難の言葉が、いわゆる
「葬式仏教」
ですが、本願寺教団をはじめ多くの仏教教団ではこの批判に対して、終末医療に携わる方がたとの連携や、差別・平和・環境などの社会問題に積極的取り組むことで応えようとしています。
もちろん、これらの社会的活動を行うことはとても大切ですが、その一方やはり寺院は批判を受けても
「先祖供養について、真摯に取り組むべきだ」
と、思います。
ただし、取り組むからには
「ほんとうの意味での先祖供養をする場になるべきだ」
と考えています。
この場合、重要なことは
「先祖供養をするといっても、それはどうすることがほんとうの意味で先祖供養をすることになるのか」
ということについて、きちんとした確かめをするということです。
私たちは日頃、先祖とか祖先という言葉を口にしたりしていますが、その対象者はあまりにも漠然としています。
10代遡っただけでも、私の前を生きた人は1024人にもなるそうですが、いったい何人の方をご存じでしょうか。
また、これまでいったいどれだけの人が、私にいのちの絆をつないでくれたのでしょうか。
『歎異抄』の第五条に
「一切の有情は、世々生々の父母兄弟なり(一切の生きとし生けるものは、すべてみな、いつの時にか父母であり、兄弟であった)」
という言葉があります。
私たちはお互いを他人のように思っていても、遡っていけばどこかでいのちが交わっているであろうことを物語る言葉ですが、そのような感覚において自分のいのちが受け止められるとき、つまり自分のいのちというものに限りない歴史を、あるいはそのようないのちの歴史をこの身に賜っているということにほんとうに頷くということがなければ、いくら
「先祖供養」
といっても、そこで行われる供養はただの「取引」になってしまいます。
「取引」とはどのようなことかというと、現在一般に理解されている「先祖供養」は、
「私がこれだけ供養をしたから、それに見合うご利益をください」
といったことが、具体的内容になってしまっているということです。
あるいは、ご利益を期待しないまでも、
「供養」をすることで
「私が不幸に陥りませんように」とか
「私や家族に災いをもたらさないでください」
といったことを願うあり方のことです。
これは、亡くなられ方がたを
「取引相手」と見るようなあり方でしかありません。
しかし、本来
「先祖供養」の場というのは、自らのいのちの歴史の前に身を据え、いのちの歴史を賜ったものとして今の自分の人生を喜び、今の自分の人生をほんとうに大事に受け止めていく場なのです。
したがって、そのことを抜きにして
「供養」ということは成り立たないはずなのです。
ですから、
「ほんとうの供養」
ということは、まさに私の人生をいただき直すということだと言えます。
浄土真宗を顕かになさった親鸞聖人は、自身に先立って亡くなって行かれた方がたを、単に
「過去に亡くなった人」
ということではなく、自らを仏道に引き入れてくださった「諸仏」として仰いでいかれました。
考えてみますと、大切な人、愛する人を見送るときには、言い知れぬ悲しさや歎きが心にわきあがってくるものですが、私たちがそのときに感じる悲しさや歎きは、亡くなったその人によってよび起こされるものです。
それは、いわば亡き人によって贈られた悲しさや歎きであり、まさにそのことが私たちを仏道に向かわしめる尊い機縁となります。
おそらく、そのように心から悲歎するという体験を持つことがなければ、なかなか私たちは自らの思いによって仏道を求めるということはできないのではないでしょうか。
また、浄土真宗では親鸞聖人のご命日を勤める法要を
「報恩講」といいます。
「報恩」とは「知恩報徳」の営みのことですが、この
「報徳」の前には必ず「知恩」があります。
しかしながら、今日の
「供養」のあり方をうかがうと、そこには
「知恩」という営みが全く欠落しているように感じられます。
そして、そのようなことに陥ると、
「供養」はそれを行うことで
「これで気持ちが安らぎました」
というような、私自身の単なる気晴らしに終わってしまうのです。
したがって
「先祖供養」においては、どこまでも私たち一人ひとりが自分の存在に
「知恩」ということを自覚していけるかどうか、そのことが
「供養」が「報恩」の営みになるかどうかを決定付けると言えます。
毎年お盆には、多くの方々が大変なご苦労をなさってふるさとに帰り、墓参をされます。
そうすると、そのことの根底に、自身のいのちがここにこうしてあることは、先に往かれた方がたの無数のいのちがあったからに他ならず、しかも今私が念仏の教えに遇い得ていることは、まさに
「先祖」の方がたが連続して絶えることなく、み教えを承け継ぎ伝えてくださったからです。
その深い縁に心を寄せ、先祖の方がたの
「ご恩を知る」とき、まさにそこで営まれる
「供養」は「徳に報いる」行為となるのだと思います。
いまここにこうして自らのいのちあることの深い縁に心を寄せたいものです。