お念仏は聞かなかったらわかりません。
だから仏法はただ「聴聞」に極まる世界なんです。
聴聞の「聴」というのは、こちらからその音の方に意識を向けて聴くことをいいます。
「聞」というのは聞こえてくるということです。
聴こうと意識していなかったら、なかなか聴こえてこないものです。
だから聴聞というのは、難しいものなんです。
仏法聴聞のためにお寺に参るのも、だいたい邪魔が入るんですよ。
例えばこんな話しがあります。
ある奥さんが、今日はお寺参りしようと思って一生懸命支度をしよりました。
すると電話がかかってきて、
「奥さん、今日の広告見たか。なんとあそこのスーパー、今日は肉が200円も安いんですよ、一緒に買いに行きましょうや」
と言うんです。
それで奥さんが「お寺参りしようと思うとる」と断わろうとすると、
「そんなお寺なんかに参りなさんなや。参ったところで1円の得にもならしませんよ。肉の方が200円も安いですよ。一緒に行きましょうや」
と言う訳です。
こういう邪魔が入ると、参ろうと思っていても、なかなか参らせてもらえんのですよ。
ましてや、今度のご講師は若い人じゃろうか、年寄りじゃろうか。
こんな格好では恥ずかしいとか、昨日と同じ服を着ていって笑われたらいかんといって、服を一生懸命選んだりしていたら、お参りなんてできません。
♪一で嫌がるお寺参り
二で二の足踏みたがる
三で誘われ義理参り
四つようやく参ってみれば
五ついつもの癖が出て
六つ無性に眠たがる
七つ何にも聞かずして
八つやかましく起こされて
九つこれはと驚いて
十でとぼけた顔をする
言うてね、参らしてもらおう、聞かしてもらおうと、自分自身に力を入れなかったら、なかなか参れんのです。
善太郎という昔のお同行のことをお話ししましょう。
善太郎さんが畑で一生懸命野良仕事をしよりましたら、お寺の鐘がカンカンカンと鳴りました。
そうしたら善太郎さん、
「参れとおっしゃるんですか。
参らしてもらいましょう。
来いとおっしゃるんですか。
行かしてもらいましょう。
参らしてもらいましょう」
と言うて、着の身着のままでお寺に行かれたんです。
♪鐘が鳴る鳴る法座の鐘が。
早う来いよとせき立てられて
野良着きたままお寺へ参る
鍬を担いだ善太郎
というふうに歌われております。
要するに、お寺参りするのに格好などいちいち気にしていては、参る機会をなくしてしまうということです。
聴聞というのは、「お念仏のおいわれ」を聞かしてもらうことです。
例えば、頭痛薬を飲めば、薬が“効いて”頭痛が治まるのと同じように、如来さまの本願、念仏のおいわれを“聞いた”ならば、疑いが晴れて、親の一仏のご恩に気付いて、朝に礼拝、夕べには感謝というまことの暮らしがそこに生まれてくるんですね。