この辺りは新しい仏都をなしかけていた。
仁和寺(にんなじ)の十四宇(う)の大廈(たいか)と、四十九院の堂塔(どうとう)伽(が)藍(らん)が御(お)室(むろ)から衣笠山(きぬがさやま)の峰や谷へかけて瑤珞(ようらく)や青(あお)丹(に)の建築美をつらね、時の文化の力は市(し)塵(じん)を離れてまたひとつの聚(じゅ)楽(らく)をふやしてゆくのだった。
鏡ヶ池には夏は蛍(ほたる)がりに、宇多(うた)野(の)には秋を虫聴きに、洛中の人は自然を慕い、四季の花に月に枯(かれ)野(の)見(み)にかこつけてよく杖をひく所であるが、わけても今年の秋から冬へ、また冬から年を越えての正月まで、仁和寺をはじめ、化(け)蔵院(ぞういん)や、円(えん)融(ゆう)寺(じ)や、等(とう)持(じ)院(いん)、この辺りの仏都市へ心から素直になって詣(もう)でる者が非常に多いといわれだしていた。
「おのずから世の推移が、人の心をこういう方へ向けてきたのじゃ」
とここの人々は、それを仏教の繁栄といい、興隆といい、また復興といった。
そういえばそういわれないこともない。
戦(いくさ)が生活であり、戦が社会の常態だった一時代はもう大きな波を通った船から振りかえるように後ろのものだった。
鎌倉幕府というものの基礎や質のいかんにかかわらず人心はもう戦に倦(う)み、ここらで本然(ほんねん)の生活に回(かえ)って静かな生活をしてみたいことのほうに一致していた。
すでに国政の司権が武門の手に左右されてからは、それが平家でなければ源氏であるし、両者を不可としたところで姑(こ)息(そく)な院中政治がかえってそれを複雑にするぐらいなもので、どっちにしろ民衆の望みとは遠いものが形になるだけのことだった。
民の心の底でほんとに渇(かわ)くように望んでいる真の王道というような明るい陽ざしはここしばらく現れそうもないと賢者は見ている。
覇(は)道(どう)を倒して興るものはまた覇道政治だ。
それならば何を好んでか全国土を人間の修(しゅ)羅土(らど)にして生きる心地もなく生きている要があろうか。
そういう疑問が当然に疲れた人々の考えの中に芽(め)ざしている。
武士階級ほどことにそれがつよい。
公(く)卿(げ)はいつでもなるべくは現在のままで安易にありたいのだ。
天皇の大(おお)民(み)族(たから)といわれる大本の農民はほとんどそういう興亡からは無視されているので、これは幕府が鎌倉に興ろうがどうしようが今日の天気と明日(あした)の天気のように見ている――
建仁元年一月はめずらしい平和な正月だった。
四民がみな王道楽土を謳(おう)歌(か)しての泰平ではなくて、疲れと昏迷から来たところの無風状態――無力状態なのである。
そうした庶民たちが、「寺へでも詣(もう)でようか」とか、「説教でも聴いたら」と、洛外へ出るのだった。
したがってこういう人々が仏法へ奉じる行作(ぎょうさ)は決まって形式的だった、遊山気分だった、派手だった。
山内の修復を勧進(かんじん)しましょう、塔を寄進いたそう、丹(に)を塗ろう、瑤珞(ようらく)を飾ろう、法(ほう)筵(えん)には能(あた)うかぎり人をよび、後では世話人たちで田楽を舞おう。
そういうふうに仏教を享楽するのでなければ、彼らの空虚は満たされなかった。
求めて来る者に対して満たし与うものを、この十四宇と四十九院の堂塔伽(が)藍(らん)も実は何も持ちあわせていない。
しかし形の上では仏教復興は今や顕然(けんぜん)たる社会事実だった。
時代思潮は何ものかを確かに求めていた。
※「行作(ぎょうさ)」=ふるまい。おこない。行為。